白玉楼への一里塚

冥土への道中、皆様とご一緒させていただきたく存じます。

一觴一詠14〜晴耕雨読 

村雨の弾む軒上 ぬく栞
季語:村雨

水たまり嵌まり揺れたり 梅雨の月
季語:梅雨の月


久々の俳句ですな。
いやはや、本当に久々。

洗濯物にも困る季節、なかなか外で体を動かすこともままならず、鬱屈した気分の人も多いことでしょう。

こういう天気の時に仕事があると、いやおうなく甲斐なく傘をさし、湿気のかたまりのコンクリートジャングルへ繰り出さねばならないのでしょうが、そこは大学生、学校の授業を受けつつ、残った時間は小さな巣にこもって、読書をしたり映画を見たり、気ままに過ごしています。

ただ、最近は都議会選挙が近いこともあって、この季節のよくお似合いの、気持ち悪いくらいに湿り気のあるうやうやしい声が聞こえてくるのが、いわく言いがたき、室内に干すタオルの隙間なる不協和音と化しております。もっと強く降りしきれ場、雨音が全てをかき消し私を閉じ込めてくれるので雨が、そういう意味でも、なかなかスッキリしない天気が続いておりますな。

さて、今度ばっかりは、なんということもなく、吟詠したいと思います。

一つ目の「村雨」の句は、村雨に心を弾ませる様子を描こうと思った次第。最初は「村雨の弾むや 笑みて抜くしおり」だったのですが、「笑みて」の三音が正直もったいないのと、中間切れは少々リズムが悪いなと思い直し、このように変えてみました。とはいえ、まだまだ改善の余地はあるので、様々な意見を伺えればと思う次第です。

二つ目の「梅雨の月」の句は、「梅雨の合間の月を見上げて歩いてたら、水たまりにはまって視界が揺れ、梅雨の月が揺れた」という解釈、「水たまりに映った梅雨の合間の月が、そこにはまったことで揺れてしまった」という解釈、「水たまりにはまって水たまりが揺れた。それで見上げたら梅雨の月がそこにあった」という解釈の、3つがおおよそ考えられるでしょう。音韻にとても気を使いながら、解釈の余地を残した上で、それらのどれを取っても「梅雨の月」が風雅に美しく表現できるように注意して作ったつもりです。

インドアな句もアウトドアな句も今回は作ってみました。
(アウトドア…?)

いかがだったでしょーか!!
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一觴一詠13〜「花」の季節 

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀友則)

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)

吉祥寺の桜これは吉祥寺にて先日撮影した桜です。


お久しぶりでございます。大学生に許された寛かなる春の猶予期間も終わりを告げ、新年度の忙しさにかまけて更新を怠っておりました。とはいえ、再び学業が忙しくなればなるほど、物思いやら愁えやらは自身の器に溜まっていくばかり。なんとも、バランスのとりにくい世の中でございます。

さて、昨今、各メディアで目にする日本文化についての宣伝に、「日本の伝統的感性」「日本人としての美意識」などという言葉をよく耳にします。桜という花に関して、春の風景に関して、特にそういう話を聞くことが多いように感じます。

高校の古文の授業では、「花といえば、古文においては桜のことを指します!」などと教わります。それでなくとも、日本人は、日本にある「美しい四季」を象徴するかのような「桜」のイメージを、頑なに保持しているようです。

なんともばかばかしいように聞こえてなりません。そもそも、詩歌の世界において、日本で「花=桜」というような言葉の使い方が見られたのは、国風文化の影響以降です。少なくとも、万葉集の時代には「花=梅」だったのです。

ここでは、「古来より日本人は……」という言説の多分なる思想性と非現実性を、みなさんにご理解してもらうことと致しましょう。

上に提示しておいた二首は、花を詠んだ歌として非常に有名なものですが、これが、非常に僕の抱ける違和感を示してくれています。

この二首を詠んだ、紀友則と紀貫之は、両者とも古今和歌集の選者として勅撰された、当時随一の歌人であり、しかも従兄弟同士であるという、同時代人でした。この、同時代の一流歌人が詠んだ花の歌ですが、実は、これ、「ひさかたの〜」は「花=桜」なのに対し、「人はいさ〜」は「花=梅」なんですね。同時代的に、この用法にはブレがあるわけです。日本人の伝統的感性に、あの紀貫之が反しているとでも言うのでしょうか。そんなわけがありませんよね。考えられるのは、一概に「花=桜」とは言えないということのみです。

さらに、現在の日本で鑑賞されている桜の大部分はソメイヨシノですが、これは江戸末期に品種改良により生み出され、明治以降に日本中に植樹されて急速に広まったため、その経緯は相当に人為的と言えます。特にソメイヨシノは、自分では繁殖できない様にされてしまっており、完全にその生命を人間に委ねている存在です。自然の象徴、式の省庁などとは程遠く、自然の摂理たる輪廻から完全に踏み外した、全くもって「人工的」な存在であるというほかありません。

別にここで、僕は桜の価値を否定しようとしているわけではありません。国風文化以降、桜のプレゼンスは確かに上昇していき、嵯峨天皇や西行法師、豊臣秀吉にも愛された、歴々たる文化を持つ花であることは確かです。現在の詩歌の世界では、「花=桜」として扱うことが多いのも事実ではあります。

ここで指摘したいのは、先ほど申し上げた「日本人の伝統的感性」などというものが、歴史の中で変遷を辿ってきた、可変的、可塑的な概念でしかないにもかかわらず、それを維持されるべき精神であるとして推戴すべきであるといった観念は、歴史的な必然でない上に、相当に人工的なものであり、思想としては非常に危ういということです。

明治新政府が、近代国家を目指して近代学校制度を整備し、規律化し、訓練する権力となって子どもを対象化した時代、学校には桜の木(ソメイヨシノ)が植えられていきました。大部分の日本人は、学校の校庭に桜が植わっていて、その花びらの舞うのを見たことでしょう。近代主権国家には、国家成立の三要件として「人口(国民)」「国境」「主権(政府)」が定義されています。この定義を満たすべく、国家は国民意識というものを形成して行かざるを得なかった。これは、時代としては仕方のないことだったように思います。

しかし、それを対象化する、つまり客観的に認識することは、人間の知性として可能であるべきであるとも思います。少なくとも、愛国心のかけらのような言葉を弄して、こうした客観化を阻むことは、知性の否定、すなわち人間の否定であるように私は思います。

花時の雨に散りゆく花びらに、憂国の感を懐く、3限の授業の窓でございました。


さて、ここで久々の俳句でございます。上でつらつらと桜を貶めるかのように取られかねない発言を繰り出しておきながら、その実、桜の鑑賞は僕も大好きでして、その桜の風景を題材にした俳句を二つほど。

講堂の闇へ愁ひの春ひとひら
季語:愁ひの春(春愁)

自転車のかごに咲く花時の雨
季語:花時の雨

俳句や私見に対して、何かご意見ありましたらば、喜んで頂戴いたしますので、教えてくださいますれば幸いです。また、気温変化の激しい季節ですので、ゆめゆめ、お身体を崩されませぬよう、お祈り申し上げる次第でございます。

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一觴一詠12〜蜃気楼のごとく 

ビル群を見返る間際 海市消ゆ
季語:海市

今回は冒頭に句を載せてみました。解説は後回しで、しばし近況報告ついでに、この句にも底流する僕の最近の情緒を、まずは垂れ流したいと思います。

先日、二週間弱程度の逃避行を終えて、悲しいことに、東京に戻ってまいりました。相変わらず、灰色の谷底で一人虚しく息をひそめ、たまにゆらゆらと泳いでは、すぐに仮の巣に戻るというふうな生活を送っています。

つくづく、嫌悪します。

不浄なる俗物の吹き溜まりに打ち棄てられたのだ、というような思考に全身を浸らせては、こうやって要らぬ言葉を紡いで、甲斐もない繭の中に篭る毎日です。

しかし、このような観想を抱くことが、果たして異常なのでしょうか。

異常な思考とは、何を指すのでしょうか。

正常と異常の差とは、それほどに明瞭かつ自明なものでしょうか。

虫も再びこもってしまいそうな冴え返りの雨のもとで、私は冬ごもりするかの如く、虚ろな空を見上げることのみをするか、或は、電脳世界の情報の氾濫に身投げして、自らを、ひたすらにその海中の成分・要素を体内に循環させては排出するだけの、単細胞と化せしめることに、今日という有限の時間を過ごしてしまいました。

旅行、楽しかったんですけどね。
帰省も楽しかったんですけどね。
友達と会って癒されたんですけどね。

全てが夢でなかろうか。水中の脳が見たVRではないか。
邯鄲の枕だったのではないか。それとも胡蝶の夢だったのか。
私が会ったのは実在者だったのか。
というような考えに至らしめらるるまでに、自ら心外なほど心が疲弊していたことに、今回の帰省で知らされました。

全てが、幻影であれば楽だなと思います。
今が、実は高校二年生のある日の長大な夢枕でさえあれば。
そんな夢想にシナプスを使うばかりの無色を、それでも生きていると言ってよいのでしょうね。

さて、そんなこんなで、上にもすでに載せましたが、今回のチャレンジングな一句の解説を、やっとこさ始めてみましょう。

ビル群を見返る間際 海市消ゆ
季語:海市

ちなみに海市とは蜃気楼のことです。都会を背にして海を眺めていた人が、海市が消えたのを眼にして、自身の背後の都会までもが幻影ではないかという不安に突如かられ、慌てて振り向いた、というのを詠んでみました。

チャレンジングといったのは、語順のことです。
実は、次のようなも検討したんですね。

蜃気楼消えビル群を振り返る

わかりやすいことだけを重視するのであれば、やはり下の句を選ぶべきでしょう。しかしながら、これだと全体的に調子が緩い印象がしませんか。

僕が意図したのは、現実と虚構の狭間に、一瞬投げやられた人間の焦燥を描くことでした。とすれば、最後まで切れを作らずに流れさせ、時系列を忠実に順序通りに描き、海市という季語を最初に種明かしのごとく持ってくるのは、散文的である、創意工夫に欠けるなどということ以前に、僕が一番描写したい人間の感情を、結局描き切れないことになります。

下五に「海市消ゆ」として、消えてしまう光景を読者の心象に残した方が、読者の共感に呼び起こしたい焦燥感を表現できるかなぁという淡い期待のもと、最終的にこのような句と決定し、掲載に踏み切りました。

みなさま、いかがでしょうか。今回も、何かご意見ありましたらば、気軽にコメントをお寄せください。句作に関すること、リクエスト、異議など、なんでも大丈夫です。ご遠慮することなくお伝えくださいませ。
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一觴一詠11〜大陥穽にて 

実は先日から、姫路を離れて高校時代の友人たちと共に九州旅行にやって来ております。1日目に阿蘇の大観峰、2日目には稲積水中鍾乳洞へ行って参りました。

阿蘇・大観峰より
阿蘇

稲積水中鍾乳洞にて
水中鍾乳洞1

自然の世界に存在するひずみ(カルデラや洞窟など)に対しては、みなさんも同様でしょうが、情趣を感じることが多いように思います。それに対して、人間の作り上げたものから生ずる社会的ひずみの、なんと醜いことか、という表現に対しても、みなさんから一定の共感を得られるでしょう。そのような相違についての観想を得ながら、春を迎えつつある阿蘇と、雨に肌寒かった鍾乳洞を詠んだのが、次の二句です。

白昼に眠り草青む大阿蘇
季語:草青む

冴返る瑠璃のほら穴 友の声
季語:冴返る

この二句、句切れの位置は同じような場所にあるため、構造的な類似を感じる方もおられるでしょうが、季語の位置が実は全く異なるという点が、重要な相違点となります。客観描写の句においては、読者の五感を刺激することが、ひとつ大切なことですから、色覚や聴覚に訴える句とするために、語順にも気を遣わねばなりません。

阿蘇の句は、大の字で空間的広がりを表しつつ、静かな情景を描くようにしました。また、白と青の堆肥を字面で表現してみました。

ほら穴の句は、冴え返るという人間の肌感覚を重視しつつ、ほら穴の瑠璃色の空間を響く共の声を、実的な聴覚に直接訴えかけることを重視してみました。

季語の位置はどの段階で季節感を提示するのが良いか、ということに関わる、甚だしく大きな問題です。また、どの語で句を締めるかということも、句によって描く映像に大差が出るため、配慮を尋常なく要します。大阿蘇という空間的拡がりで締める、声の響きで締める、というのが良いだろう、という判断のもとで、今回は語順の推敲を行いました。

ただし、これが間違いである可能性はなお否定できません。何か助言や感想等ありましたら、どんなことでも良いので、気軽に教えていただけると幸いです。

にしても、人間の生み出す陥穽(ビルの谷や社会格差など、さまざま)の醜悪さは、先述した通りですが、虫酸が走ることがあります。日々、その大小に愚痴を零しながらそぞろ暮らしていますが、それに関しては、もう少々考えがまとまってからの投稿にしたいと思います(^^;)


ここまで読んでくださったならば、ついでに拍手までしていっていただけるとありがたいです。また、コメントもくだされば、なおニッコリします(^^)
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一觴一詠10〜声と拍手とサイレンと 

先日、センバツの観戦に行ってまいりました。

センバツ

試合内容は各々、惨憺たるものでしたが(21−0のワンサイドゲームなど)アルプスまでも聞こえる円陣の声に、そんな感想は浅はかなものとして捨てられ、むしろそれも加味してこその趣であると再任させられますね

さて、こういった光景を句材として詠む際には、実はなかなかの困難が待ち受けます。

第一に、俳句で17音、短歌でさえも31音しか許されておらず、その表現にどうしても制約が生まれること。

第二に、あまりにも親しまれすぎたイベントを句材とするために、どうしても発想を平凡なものとみなされがちになること。

第三に、これには以上の二点も関係するが、どうしても一部分を捨象して伝えざるを得ず、完成した句に対して読者が物足りなさを感じてしまうこと。

これらの艱難を乗り越えてこその創作意欲(大仰に言えば、詩心)ですから、どうにか視点を自在に移動させつつ、発想を工夫する或は表現の技巧を凝らす或は奇を衒うなどして、何らかの「技」をこなさねばなりません。

同時に、読者に対しては、一定の共感を得つつ明確な映像を再生させるようにする必要があります。

当然、季語の持つイメージを重視することが、ここでは大切になりますが、そういった能書きはまた後日に。

散々、偉そうなことを言ったところで、そんな句作がこちら。ただ、私自身は非常に平々凡々な作家なので、チャレンジングな飛躍というよりは、いかに視座を移動させたかというところを見ていただきたいとは思いますが…

声援の残るスタンド 月おぼろ
季語:月おぼろ(朧月)

春愁や 埃の野球帽笑みたり
季語:春愁

今回は短めですが、このくらいで終わってもたまにはいいでしょう。当然、今回もですます調で記述しましたーー




ここまでご覧いただければ、拍手までして言ってくださいな♪
つぶやいてくれると、もっと嬉しいな♪

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一觴一詠9〜彼岸なるデジャヴュ 

好評につき、今回もですます調の文体で叙述していきますね〜

彼岸は年に二回あります。季語が重視される俳句の世界においては、秋の彼岸のことを「秋彼岸」と呼び、単に「彼岸」といえば春の彼岸を指す、というふうにして、二つは区別されてきました。

個人的な感傷では、秋の夕暮れにさす西日の寂光めく朱色などが、西方浄土を思わせるようで、より「彼岸」感がある気がするのに、なんで春メインなんだろう、というふうに長い間思ってきたわけですが、それを覆すかの感慨を、今回の姫路への帰省にて覚えつつあります(1)

今日も今日とて、愛犬の散歩に故郷の路地へそぞろ歩いてきました。はじめは明るかったんですが、やはり春の日暮れは思う以上に早いようでして、歩くうちに外はどんと暗くなり、思い出したかのように寒さが押し寄せてきたんですね。

そんな折、近所の公園を歩いてたんですけど、入り口のところに電話ボックスが立っています。

そこで、僕は、思わず、携帯のシャッターを、切ってしまったのです。

彼岸の公園_convert_20170319211847

というのも、見えにくいかもしれませんが、この角度から見た、公園の入り口に佇む電話ボックスの、この風景。いや、正確には少しこれより背が低い位置と角度から見た風景なんですけど、とにもかくにも、この風景。今日、僕はこの、何度も見たはずの、この風景を見て、とんでもなく、不穏な既視感に、心を凍らせました。

いや、何度も見たことあるなら、既視感とは言わないじゃないか、と言われるかもしれませんが、そういうことではないんです。何というか、違和感にも近いといえばいいんでしょうか、そんな風景のように感じましたし、「見た」というのも、そういうことではないんです。

それは、この風景が僕にとって、曖昧なでありつつ、容易ならざる意味を持っているように思われる、そんな事情があるからなんです。

僕は、幼い日のことを思い出そうとするとき、様々な記憶のうちの一つで、この風景をよく思い出すのです。そこで、何か特別なことがあったわけでも、誰かといたわけでもないにもかかわらず…というよりも、そんなことなどは覚えてないにもかかわらず、といったほうがいいでしょうか…とりあえず、そんな、とりとめもないはずの、しかも幾度も見たことのあるはずの風景が、理由もなく、嫌に脳裏にこびりついて離れようとしないのです。そうして、昔について何かを顧みようとするごとに浮かび上がっては、僕を不安にさせ、しかも、その場所を通るたびごとに、嫌な既視感を僕に呼び起こす、といったことを、実は繰り返してきたのです。

これらは、昔を顧みる余裕もないほどに忙しくなった、受験期や大学1年次などでは、息を潜めていたように感じます。

であるにもかかわらず…というより、だからこそ、なのかもしれませんが…今日、久々に公園に立ち寄ってみると、今までには全く味わったことのないような既視感、言いようもないほどの不安に襲われたのです。

そのとき、僕は無意識のうちに、今日がまさしく春のお彼岸であったことに気がつき、嫌にそれが気になり、そんな自分に対して気がふれたのではないかと意識されたとき、不意に、その電話ボックスの影に目をやりました。そのとき、こう考えてしまったのです。

先祖に感謝し、自身の極楽浄土も願う行事とされる、お彼岸。
寒さと暑さの切り替わるとされる、お彼岸。

そんな輪廻の始動する季節の暗さの中で、(1)
生命を艱難というメビウスの輪に打ち棄てる季節の余寒の中で、
この風景によって、人生で初めてともいいうるほどのデジャヴュに襲われたということ。

何か警句めいているとまで言い得るかのような、背筋を寒くせしめるほどの、彼岸にて襲われた、このデジャヴュ。今まで感じてきた、この風景の記憶や感慨や既視感は、すべてこの日のこの散歩のこの時間のこの時の感覚のために在ったのではないかと思われるほどの、彼岸にて私を襲った、このデジャヴュ。

何なんだろう、との疑問の答えを感じる間も無く、我が愛犬の足取りに引かれて立ち去りましたが、心はいつまでも惹かれたままでした。

こんなにも、判然としないままの感慨や思惟を、それでも、文字にせねば気が済まぬと思われて、こうやって今タイプしています。

もしかしたら、この時、僕は彼岸から手ぐすねを引かれていて、それに対して無意識が警句を発したということなのかもしれません。それか、もしくは、僕がすでに、昔のとある時期に、この風景を前にして、人ならざるものに憑かれてしまっていて、その惨憺たる記憶はもう消えてしまっているか消されてしまっているけれども、体だけがその記憶を覚えていて、恐怖を覚えたということかもしれません。

答えはいくら考えても出ませんが、いずれにせよ、或る一線が揺れ動く季節なのです。
みなさまにおかれましては、くれぐれも、憑かれてしまわぬように。
日々、気をつけてお過ごしください。

最後に、こんな一句をご用意。

彼岸なる路地の暗闇 真っ暗闇
季語:彼岸

以前までのような技巧的に何かを感じるようにというのではなく、唯々死の象徴だけを目一杯込めた、そんな気味の悪い一句にしてみました。いかがだったでしょうか。

拍手、コメント等頂戴できれば幸いですー


(1)「一觴一詠4〜蠢動という葬送曲」「一觴一詠6〜春濤の六回忌」を参照されたし
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一觴一詠8〜鷺城に春の匂うころ 

文体があまりにも固いというご指摘を、たまたま読んでくれた或る友人から頂戴したので、ちょっと崩した感じで今回は叙述してみようと思いますね笑

一觴一詠7〜悟りの散歩道でも言ったように、ただいま姫路に帰省しております。JR姫路駅のあたりは、150年前まで姫路城の飾磨門という門だったこともあって、姫路駅に降り立てば、真ん前に姫路城を望むことになります。

姫路城


まぁ、それで「歩いてもすぐに姫路城に着くだろう」なんて甘い考えで歩き始めると、後々にその意外な遠さに気づくので、ぜひバスか貸し自転車のご利用をお勧めします。僕は、年末の善光寺参りの際に同じような痛い目にあいました。2キロであんなに建物が見えるとは思わんやん…と思いながら歩いたんを覚えてます。

さて、それは措くとして

折角のこの季節ですし、帰省中でもありますから、ありきたりな風景を句材としているという批判は一旦受けるとして、こんな句はいかがでしょうか。

青楼も見るか 桜の白鷺城
季語:桜

桜の姫路城なんて、姫路の土産物を買えば十中八九その包装紙に書いてある風景です。それでも、そんなありきたりな発想の掃き溜めから、それこそ丸めて捨てられた包装紙にあるような風景を拾い上げて作句するからには、自分のオリジナリティをいかにして入れ込むかということが、大きな大きな試練となります。

そこで、考えたのが、青楼。これは娼楼とも書く単語です。具体的にどんな建物のことを言うのかは、みなさんどうぞ検索してください。詳しい意味はここではよう書きませんし、なんでそんな場所を知っとるのか、なんていうツッコミを入れられれば、どこだかにいらっしゃるアベさんみたくシラを切ることになるんでね。各々調べてくださいな。

青楼という、おおよそ清純な桜の景色に似合わぬような語を取合せる、という工夫。しかし、そんな辞書レベルだけで、工夫しましたなどと鼻を高くするようでは、やはりアカン訳で、これを選んだ理由は他にもあります。

桜という、一種の艶を示す季語に対して、直接的な艶かしさを持つ青楼がそれを羨むかの視線を、擬人化により描いてみる。そして、その青楼の視線の向こうには、さらに大きな楼閣である白鷺城があるという構図を描く。これによって、桜の白鷺城の美しさを雄大さを同時に強調するのだ。おっと文体が固くなった、柔らかくせねば。

そんでもって、やっぱり文字で見たときの綺麗さも重視しました。すなわち、青楼の楼の字と、桜の字を響かせたことでしょう。青い楼とピンクの桜を、字面として共鳴させる、これによって、青、桜、白という色の対比を、潜在意識の中で鮮やかにはっきりと映し出す効果を狙ったわけです。青空の姫路城なんてのも、これもまた掃き溜めにある発想の一つですが、青楼の語の使用によって青空の青さを潜在意識に浮び上らせるという、ささやかな仕掛けによって、そこらへんの小学生が習字の授業で書くような、拙い筆跡で書かれた一句であるというような印象は、少なくとも避けられる(はずです)。

てな感じで、いかがでしょうか。僕の句作はどうにも頭でっかちになりがちで、技術として拙さが出てしまうので、コメント等を頂戴できれば幸いです。

あと、珍しく喋り言葉っぽい文章にしてみましたが、いかがだったでしょうか笑
その辺も、何か思うところがあれば、教えていただけるとありがたいです。
僕的には、やっぱり硬い文体が好きかなぁ、、、




ここまで読んでくださったならば、ぜひ拍手もお願いします。多分、してもらえると飛び上がって喜ぶと思います♪

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一觴一詠7〜悟りの散歩道 

さて、僕は現在、兵庫県姫路市にある実家に帰省している。

愛犬の散歩中、突如降り出した雨に逃げた先の軒先から、温む水に立体感を得始めた故郷の山を見た。

ざわめける山 ふるさとの春の慈雨

慈雨の音 土の音 啓蟄の音

季語;春(春の雨) 啓蟄

このブログにおいて、僕は一貫して「蠢動の不安」というものを繰り返してきた(詳しくは、「一觴一詠4〜蠢動という葬送曲」や、あるいは「一觴一詠6〜春濤の六回忌」を参照のこと)。

しかし、そうは言ってもやはり、色めきだつ自然に現前すると、人として少しばかりの感傷を抱くことは事実である。特に、灰色の縦の世界に圧迫される東京では、蠢動に対する不安を煽られもするが、やはり故郷という、一種の生物としての地盤(いわば母)に包まれていると、その大地の揺れもむしろ羊水の中のおとぎ話のようで、微笑ましいとも思えてくる。

そんな不安定な存在であるということだけは、確かだと言える。それだけは言えるが、それ以上は言えない、さような存在であることを、改めて認識せねばならなかったというような、思考の揺れにここ数日襲われている。

この思考の揺れは、やはり「命」に対する種々の感情が巻き起こすものだろう。特に3•11以降の日本人は、啓蟄を愛でながら自然を畏怖するという、まさしく「輪廻」への激情とも言いうるかの感情を抱くようになった(一觴一詠6〜春濤の六回忌より)。これは、まさに「輪廻」なのだ。まさに、ゴータマというインドの青年が感じた不安に他ならないのだ。

とすれば、人間の本源にかかる心理にも、終わりがないことに嘆息をつきながら、とりあえずは春霖雨の音を聞くしかないのだろう。

春は、終わりであり始まり、別れであり出会いであると形容される。
しかし、ここには終わりがない。始まりもない。
唯、輪廻があるのみ。

そんなふうにして、なにか悟りを開いたかの心持ちになりながら、愛犬と家路についた。



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一觴一詠6〜春濤の六回忌 

灯籠よ かの東北の春月へ
季語:春月

冬眠から明けて、虫たちが巣から出始める頃というのを意味する季語「啓蟄」を、海にも感じるということについて「一觴一詠4〜蠢動という葬送曲」で述べた。この記事にも関連するので、時間が許せば是非一読していただきたい。

そうした蠢動に対して、少なからず好ましい感傷を懐いてきた日本人は、しかしながら、かの災禍を経たことで、啓蟄の頃が廻るたびに、蠢動の海に対して、甚だしい畏怖の念を想起させられることになった。

雪解の水で満ちるはずの海によって、心を凍てつかせることになった。豊かの実りをもたらすはずの海によって、実りを奪われた土地へと打ち棄てられることになった。そして、これからガイアに生命を吹き込むはずの海によって、我々自身の生命を根こそぎ奪われることになった。

これらの逆説を人々が突きつけられたとき、ある者は神話のごとく「共存」を高らかに謳い、ある者は現実主義を気取り「支配」を威く説法するようになる。

災禍のたびに、日本がそういった畏怖によってとる姿勢に於て、メビウスの環に居るかのごとき、方策の振り子に陥ってしまう原因は、ここに在しているのだろう。

政治的なもの(something political)に携わるものであるならば、その振り子の克服をここで志向し、論じることは理解できる。

しかしながら、形而上的でさえあるこうした生命の蠢きを前にして、我々に唯だ許されていることは、何人も容易く手に取ることができる手段としては、おそらく、灯籠流しのような、クラシカルな慰霊の営為のみであると、私には思われるのである。フーコー的権力理解など、このような場面では、どうにも取るに足らぬものとして、私には感ぜられて仕方がないのだ。

春月のもと、その形而上の岸辺に向かった命に対して、思いを馳せることー思索を巡らさずとも、ただ、意識に於て安穏を志向することーポリティクスとは全く異質な、存在者に与えられた最低限の営為ーが、このバイオレントとも言いうるような海の蠢動への犠牲(sacrifice←sacred)に対して、我々が唯一できることではないか。

今日のような大きな春の月の超然が、儚き祈りの対象たる彼らの、我々に対する超越と重なりあう。この眺めに、そうした想いを馳せながら、今夜も闇は更けてゆく。

灯籠よ かの東北の春月へ




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一觴一詠5〜うららかなる破綻の考察 

うららけし 手首の血もスピリタスも
季語:うららけし

季節の感慨など、誰が決めたのであろうか、という感慨を抱くことがある。

「秋の暮れ=寂寥」「冬の朝=清澄」など、誰が決めたのだろうか、といったようなことを思うことがある。

もちろん、同様の批判は繰り返されてきた。平安以降の日本人が確かに蓄積してきた季節感というものが、是に於て、同調圧力として、硬直性として働いているのではないか、という懸念や愚痴や批判は、それを吐き出さしめた原因は各々違えど、歴々の文人が指摘してきたことである。

「季語なんて旧暦の残滓であり、 '夜明け前' の遺物であって時代遅れである」という批判などに至っては、半世紀以上にわたって繰り広げられてきている。

しかし、日本語の歴史たる、およそ2000年分の蓄積がそこにあることを考えると、それを完全に無に帰せしむるような、そんな絶対的な革命は、ビッグバン以前の混沌へと日本語を至らしむようにも思われ、非常に悩ましい。

ということであれば、季語としての感傷へは従いつつ、潜在意識としては相反するような、そんな転覆(クーデター)のようなものが、そのような革新の在りようとしては、現時点では一旦、望ましいのではないだろうか。

安穏たる季語に破綻めいたものをぶつけたり、激情の季語に不自然な静寂を取り合わせたりするといった、そのような表現の蓄積の拡がりによって、そういった転覆は導かれうるのかもしれない。

とはいえ、そのようなことすらも、歴々の詩人たちが行ってきたことである以上のことでは決してない。従って、結局は日本語の枠内に収まるものという他ない。アウトローはあくまでもアウトローなのであって、どれだけ外角いっぱいを攻めても、ストライクはストライクであるし、ボールはボールである。

やはり、カオスではないもの、すなわちガイア以降のものは、もはや季語の世界にあらかた包含されているのだろうか。

それでも、ガイア以降の世界に風穴を開け、その混沌から新たなるビッグバンを生むような営為を、諦めたくはない。調和のとれた世界が存在することなど、本当にあるのだろうかという疑いの視点を放棄したくはない。

たまには、日本語の混沌を射すことを志向した句作に、このようにして挑んでいきたいものである。


さて、そこで上記の句である。ちなみに断っておくが、僕自身が自傷癖がある或いはアル中であるというようなことはないので、その点はご心配しなくてよい笑

上記の句であるが、読んでいただければわかる通り、五六六の調になっている。合計の文字数は、五七五の句と同じ一七音に収めているが、調べは逸脱するという「破調」を利用したのだ。これに対して、忠実に五七五を守った以下の句も検討した。

うららけし 自傷の痕も火の酒も

これだと、少々具体性に欠けるところが難点である。また、句の内容が破綻した生活を詠っているため、調べも破綻させた方がいいとの判断によって、破調の句を冒頭に選んでみたのだが、果たして、どのような印象を読者は受けるだろうか。

もし、よければ、どんな意見でもいいので、コメントを頂戴できるとありがたい。



ここまで読んだのであれば、ついでに拍手もしていってくれると嬉しいです♪多分、飛び跳ねて喜びます笑

カテゴリ: 俳句

テーマ: 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など

ジャンル: 学問・文化・芸術

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