白玉楼への一里塚

冥土への道中、皆様とご一緒させていただきたく存じます。

思想の轍1〜内的な青い空 

『ロミオの青い空』というアニメをご存知でしょうか。

『母をたずねて三千里』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』『アルプスの少女ハイジ』『小公女セーラ』などなど、名作アニメを輩出した、「世界名作劇場」という、日アニ社制作、フジテレビ系列で放映されていたアニメシリーズの中の一作品ですが、これらの名作たちの名前に比べると、やや知名度は劣るようです。

スイスのソノーニョ村にて、貧しくとも慎ましく幸せな家庭環境の中で育ったロミオが、病苦の父親を助けるために自ら人身売買される旨をを申し出、契約が切れる春まで、ミラノで煙突掃除夫としてたくましく生き抜くというあらすじ。意地悪な下宿先の奥さんと息子のアンゼルモから、辛い仕打ちを受けつつも、一生懸命に働き多くの人からの信頼を勝ち得、「黒い兄弟」という煙突掃除夫の子どもたちで結成したグループをもって、仲間とともに成長していく姿には、心を打たれます。

このロミオは、友人のアルフレドの知性に触れ、また、カセラ教授に見出され、文字を覚え、様々な知識を得るという形での「学習」や、集団内での様々な「学び」を通して、教師になることを志します。詳しくはアニメをご覧ください。

アニメの題名は、ロミオが煙突掃除を終えて顔を空に出した時に見た、眩しいほどの青い空から因んでいます。彼のささやかなる希望であり、その希望が少しずつ、しかし次第に、大きなうねりとなって自身と周囲を変えていくのです。

ロミオの青い空
左がロミオ、右がアルフレド

ここにおいて、現代日本に蔓延する、反知性主義者にこそ、是非とも『ロミオの青い空』を見て欲しいなと思う次第でございます。この、基盤的な思想に共感してくれたら、世に溢れ腐る言説のうちのある程度は、よっぽどマシなものになるのではないかという希望を抱いています。これが、20世紀末に放送された意義を考えても面白いかもしれません。

漢文の世界において、勉強とは、「無理をして努力をすること」であるといいます。こうした勉強感を肯定的に認める方も一定いらっしゃるでしょうが、最近の教育学では、このような意味を持つ「勉強」という単語そのものの使用が避けられ、代わりに「学習」という単語(あるいは「学び」)が使用されます。この「学習」とは、様々な経験を通して、自らの思惟、思索、思考などの枠組みが、再構成されることで発生すると、近年の発達心理学は唱えています。(詳しくは、有斐閣アルマの『はじめて出会う心理学』などを参照のこと)

僕が注目したのは、劇中におけるロミオの学習が、そういった学習観に非常に共鳴する部分があるように見受けられたということです。以下において、学習がいかに重要なものであるか、その理論的根拠めいたものを詳述しますから、少し我慢して読んでください。

例えば、数字という概念そのものが存在しない世界を想像してみましょう。自分の認識できる事柄が、甚だしく制限されることがお分かりでしょうか。そのほかにも、脳卒中や脳挫傷などで、大脳の一部を損傷した方が、相貌失認のように、人間の顔を認識する基盤を失う、あるいは、例えば体の右半分を認識する枠組みを失う場合を、想像してみてもいいかもしれません。こういった方々は、例えば、他人の顔を、人間の顔とはわからなくなってしまう、あるいは、自分の顔の右半分しか化粧できなくなるというようなことが発生します。彼ら本人に聞くと、「いや、俺は人間の顔を本当に一人も見ていないだけだ」あるいは「いや、私は顔の全体を化粧し終わったはずだ」ということを平気でおっしゃる場合があるのです。

こういった、認識の基盤を持たない人に対しても、我々は敬意を払い、人間として最大限尊重せねばなりません。何故ならば、ある人が、そうした人間に対して差別し、ともすれば生きる尊厳を奪おうとすることは、もし、そのある人よりも、認識の基盤や能力の面で、極めて優れた存在が出現した時に、その優れた存在によって、ある人自身が差別され、生きる尊厳を奪われ得るような蓋然性を生んでしまうからです。

少しわかりにくいですか?要するに、人間存在の尊厳なり価値なりを否定してしまうような考えを、人間存在として絶対的な差異など一切持ち得ないような他者に対して適用することは、論理的なブーメランとなって、同じ人間存在である自分自身の存在なり価値なりを、否定することに繋がるのです。

以上から、ある認識の基盤・枠組みを有さない人に対しても、我々が最大限の尊重を行わねばならないことはわかりました。…(1)

また、一方で、認識の枠組みや基盤について、大集団間で共有し、伝承し、知の体系を築き上げ、その体系へ手を差し伸ばし、あるいはその体系の形成に寄与するような営み、すなわち学習は、ホモ・サピエンス(賢い人間)であることを可能にする、まさしく人間たる条件の一つであると言えるでしょう。

これは、教育学部生としての自負や、宣伝を狙って単に述べているわけではありません。なぜ、人間のみがこうした高度な文明を、地球上において形作ることができたのかということと関わる、非常に重要なことであるから、ここで述べているのです。

イルカと人とを比べた時に、実はイルカの方が、人間よりも知覚が優れているなどの言説は、昔からよく言われてきたことです。では、なぜイルカや、あるいはそのほかの高い知覚を有する生物を超越して、高度な文明を発達させることができたかといえば、それは、まさしく上で述べた、認識の枠組みや基盤について、大集団間で共有し、伝承し、知の体系を築き上げ、その体系へ手を差し伸ばし、あるいはその体系の形成に寄与するような営みを、人間だけが会得したからです。これができなければ、どれだけ賢い一個体が存在したとしても、その知識や経験は、有限なものとしていずれ消滅し、蓄積されることはありません。しかしながら、人間はそれを可能としたことによって、まさしく、サピエンスと呼ばれて相応の、この大繁栄を生み出すことができました。

したがって、学習は、人間存在の本質的な営みであるということができます。…(2)

(1)(2)から導き出されるのは、生まれた当初は、相当に制限された認識の基盤・枠組みしか持たないような子どもたちに対して、そうした世界へのアクセスを可能とするように、「学習」を可能にさせることは、我々自身の生命の尊厳を否定しないという意味で、非常に人権的な営みであり、かつ、人間存在としての本質的条件であるのです。

さて、翻って、やっとロミオの話。

ロミオは、自身の境遇をしっかりと捉えた上で、同様の境遇をまさに受けようとする子どもたちを助けるための一計を案じます。また、様々な学びを通して、自ら教師となって、子どもたちを教育する側に立つことを選びます。詳しくは、実際にアニメを見て欲しいと感じますが、彼の成長も感じられて、物語中盤では胸を潰すようなことが多い作品の中で、希望に充ち満ちた場面であるように思われます。

そう、学習とは、人間存在の本質的な条件なのです。
かつ、その権利を奪うことは、人間であれば誰しも不可能なのです。

そして、このアニメの中で、ロミオとアルフレドという、学習(学び)を十分に得た(得つつあった)二人の少年は、辛い境遇に置かれた際、他の煙突掃除夫の少年たちと主に「黒い兄弟」というグループを形成し、事あるごとに協力して、様々な困難に立ち向かうのです。学び得て、世界を広げ、手段を手に入れた人間は、自らの存在価値を求め、その抑圧された状態を脱していくことができるという、非常に鮮やかなイメージを、『ロミオの青い空』は提供してくれています。

ここには、様々な異論が存在することは百も承知です。非常に20世紀的なサクセスストーリーであるという点や、社会民主主義的学習観であるなど、意見はみなさん様々でしょう。

しかしながら、評価すべきは、「学習」(学び)についての、本質的な存在論的価値を、このアニメが見事に描出しているということです。近年、様々な場所で軽視されがちな、このような「学習」(学び)の重要性を喚起するという点で、検討に値するアニメであるということです。そして、こんな時代だからこそ、この学習観の普及は、非常に価値あるものではないかと、私自身が強く、そう思ったのです。

みなさんには、思考の余韻を残すために、あえてここでブツ切りにして、話を終えたいと思います。望ましい学習、学びとはそのようなものか、みなさんが各自で考えていただければ幸いです。

長くなりましたが、最後に、このアニメの最終話にて、アルフレドの顔が青い空のバックに投影されながら、ナレーターが静かにアニメを締めくくった、最後の場面でのナレーションの文章をもって、本稿を締めくくりたいと思います。なぜ、この文章で本稿を締めくくるのかということも加えて、思索に耽っていただき、私のささやかなる願いが伝わればいいなと思っています。


『そして今、子どもたちが煙突掃除夫として売られていくことは、なくなりました。

しかし、今もなお、戦争や貧困によって、困難な生き方を強いられている子どもたちが、世界中にいることは変わりありません。

ロミオが愛した、青い空の下で、子どもたち一人一人が、尊く、自由であれと、願ってやみません。』
スポンサーサイト

カテゴリ: 思想

テーマ: 哲学/倫理学

ジャンル: 学問・文化・芸術

[edit]

PAGE TOP