白玉楼への一里塚

冥土への道中、皆様とご一緒させていただきたく存じます。

思想の轍2〜水槽の中、バリアの認知 

1、水槽の脳

皆さんは、「水槽の脳」のアポリアというものをご存知でしょうか。
*アポリア=哲学的難問のこと

もし、今のあなたは、脳だけが特殊な液体に満たされた水槽の中に入れられて、その脳に何本もの電極が刺されて、絶えず電気刺激を送られていると想像してください。また、適宜、栄養は補給され、脳自体の活動は十全に維持されていると想像してください。その上で、自分が見ているこの光景や、考えている物事や、様々なものの好き嫌い等々のあらゆる感覚、感情が、全てバーチャルリアリティだったと仮定してみます。これが、「水槽の脳」です。

ここで難問となるのは、自分が本当に「水槽の脳」の状態になっているのかどうか、あなたは論理的に否定することができないのではないか、ということです。そういう疑いを持っている、という思考そのものが、水槽の中での電気刺激によって完全に操作されているのではないか、という論理展開になると、それを否定することは非常に困難なのです。


さて、この「水槽の脳」は、非常に公権力の性質と似た面を有しているように思えます。

我々の生は、今や、国家権力によって完全に把捉され、その管理・調整・維持・規律化・訓練する時代となっています。例えば、戸籍によって管理され、病院によって身体機能を調整され、学校や監獄によって規律化・訓練されていますね。これが、現代を生きる我々にとって、もはや生物的・社会的生を担保する条件として機能しています。

これは、大体の人々にとっては全く問題のないものとして、非常にうまく社会を機能させることでしょう。しかしながら、ある国家が、管理・調整・維持・規律化・訓練する対象を、どのように選別するかという基準を設定する必要性から、移民・難民や、あるいは非就労者や生活保護受給者のような、社会に参画するための能力(言語能力や貧困等の経済能力)が一定以上、欠如している人々に対して、非常に苛烈な政策を行うことに繋がっています。本来は、「人権というのは生まれながらにして人間誰しもが有している所与の権利だ」という発想であったはず人権思想さえ、「義務を果たさぬもの、社会への貢献ができぬものには、基本的人権すら制限しても良い」というふうに変容してしまう、大きな要因となっています。

それと同時に、非常事態(戦争やテロなど)においては、我々の生が無下に投棄される対象となりうる条件ともなってしまいます。すなわち、戸籍に基づいて徴兵可能か否か、収奪可能か否か、逮捕すべきか否かが判断されますが、その際の基準は、その時の権力の要請によって決定される。その権力というのは、非常事態においては、大概の国において、民主主義的プロセスが制限されたものとなりますから、不当な事態が起こり得ます。

こうした権力の機能を、フランスの哲学者、社会学者であるミシェル・フーコーは、「生権力 (bio power)」「生の政治 (bio politics) 」(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』『性の歴史1 知への意志』ほか)と名付け、その議論を、イタリアのジョルジョ・アガンベンが継承し、そうした権力の前に佇む我々の生を、ヴァルター・ベンヤミンによる用語である、「剥き出しの生」という表現によって特徴づけました。(ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』)

彼の思想についての詳しい要約や、あるいは書評のようなものは、皆さん一人一人の知的営為としての読書の意欲を削いではいけないので、ここでは避けることにします。

彼の議論を踏まえた時に、我々の生は、まさしく「水槽の脳」のようなものとして、理解できるのではないかと思います。すなわち、我々の生は、水槽の中で電極につながれ、絶えず維持・管理されている脳にすぎず、そして、その状況そのものを超越的に認識する機会や能力すら、完全に奪われているのではないかということです。

それに加えて、国家は、ともすれば、その水槽の中の脳を、勝手に水槽の外に放り出して捨てることができる。あるいは、何かを契機として、電気刺激や栄養補給を途絶えさせて、生命の維持を不可能にするといったことができる。すなわち、我々の生が、まさしく「剥き出しの生」として、何の防備もない状態で国家権力という「暴力」(ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』)の前に晒されてしまうといったことを起こり得るこものとする、そうした機能を、公権力が有しているわけですね。

他人事ではないわけです。

社会契約思想により守られてはいますが、国家と個人との間では、未だにtag of warが続いているわけです。お互いがお互いを無力化しようと、なるべくその社会契約を、自らの有利なようにしようと鬩ぎ合うのです。

朝日訴訟や堀木訴訟の判決を裏付けたプログラム規定説。
砂川事件判決等における統治行為論の採用。

そもそも、
日本国憲法が制定された当初から、外在的制約説が唱えられるなど、絶えず我々の権利は国家による把捉と制限を免れないようにしようとする思考や運動は一定存在したわけです。ここにおいて、私は彼らの思想を糾弾する気はありません。それはそれで、国民一人一人の幸福を追求することを可能にするための国づくりを成し遂げようとしていたわけですから。その点については何も申し上げるつもりはありません。
ただし、
肝に銘じねばならないのは、所詮、我々の生命というものは、当座、たかが文章と概念によってしか守られ得ない脆弱なものだということです。たかが一つの概念が動きさえすれば、我々人類は、我々人類自身の一部たる生命、身体、幸福などを、いとも簡単に廃棄する方向へと動くということです。

であるとするならば、情けは人の為ならず。せめて、その脆くて崩れやすい我々の生命と身体と幸福を守ってくれるような、そんな「水槽」を、護持し続けるほかはないように、私は思います。

これは、非常に陳腐で小さいことを言っているに過ぎません。
思想とも言うに及ばぬような、極めて拙い所感でしかありません。

しかし、なぜこのような所感を述べようとしたのかということを、どうか想像して欲しいのです。現在進行形の日本の社会動静を鑑みながら、どうか基本的なことを省みて欲しいのです。

さてさて、ところで、終盤にて提示した、情けは人の為ならずという諺。新鮮味もとうの昔に失った、この至言を意識してもらいつつ、次章に進みたいと思います。

2、知ることのできない、不可知の領域と「バリア」

例えば、病気や怪我による脳の後天的な損傷や、先天性の脳の一部の欠損や異常などによって、様々な形での認識が、程度の差は様々考えられますが、欠落している人々がいます。すると、脳の損傷部位によっては、目や耳そのものは正常でも、認知のための或る枠組みが脳の中から完全に欠落してしまうことがあります。相貌失認等の視覚的な失認や、失語症も含めた聴覚的認知の困難が挙げられます。これらの欠落を有する人々は、先天的なものの場合は特にそうですが、これらの認知が不完全であることを認識するための枠組みすらも、そもそも持ち合わせていないということになるので、自身にそういった機能が欠落していることにすらも気づかない、ということは十分に起こり得ます。実際、先天性の相貌失認は、程度の差はあれど、全人口の2%程度に及ぶとされる一方で、その大半は、人々の声や衣服などによる認識に無意識に頼ることで、日常生活を難なく送ることができているために、自身にそのような欠落があるとは全く気づいていないと考えられています(ちょっと人の顔を覚えるのが苦手、という程度の支障はあるかもしれませんが)。

このような場合ですと、甚だしい不便さを伴うことが一方ではありつつも、認知の外の領域が他者と比べて少々広範囲に及んでいるだけであり(それが「欠落」あるいは「障碍*1」と他者には認知されるわけですが)、むしろ非常に「自然な」形で、そういった人たちは日常を過ごしているということになります。

これは、不可知論的な問題を喚起すると同時に、認識論的基盤、認識論的体系を共有しないような、他者同士の間で生じる齟齬と、構造的に類似していることを指摘することもできます。

まず前者から参りましょう。

自身を「健常者」であると思っている人々も、まったくもって知らない、認知できない事柄がなおも存在することを、否定することはできません。完全にすべての知識を獲得した人が、万が一いたとします。彼が「私は全てを知っている」と明言するためには、どこまでの知識を私が獲得したのかということについて、自覚できねばなりませんね。しかしながら、彼らはそのように断言をすることができない。なぜならば、本当に「すべてを知っている」と明言するための根拠や指標が、全く存在しないからです。「知っていること」と「知らないこと」の境界線があるからこそ、自分が何をどの程度知っているのかということの判断がつくのであって、すべてを知ってしまった人は、その境界線と完全に同化することで、境界線が見えなくなってしまうからです。

よってつまり、万人は、自身の認知の外の領域を、いかなる状況でも想定せざるを得ないのです。

ここまで思惟的にならずとも、人類よりも認知の範囲が広い生命の存在を想定すれば事足りるかもしれません。我々「健常者」だと思っている人々も、現代の技術ではどうしても認知の外になる領域がどうしても存在します。わかりやすい例で言えば、昆虫は紫外線も見えているけれど、人間は紫外線を認知することができませんし、あるいは、突然、宇宙から生命体が侵略してきたときに、その宇宙人たちと比べると、我々人間の認知可能な領域が狭いといったことは十二分に考えられます。

そうである以上は、全く異なる(あるいは進歩した)存在論的基盤を有する存在の側(例えば宇宙人など)から見れば、我々は全員、「障碍」を有する者であると捉えられることになるのでしょうね。ベジータが地球人類に対して「下等生物」と言い放ったシーンを思い出してくだされば、わかりやすいでしょうか。

よって、地球人類内において「欠落」を有する人々に対して、差別や優生的思想を抱こうとする人々は、自身も不可知の領域を絶対的には有するはずですから、自身が差別をされることについて、その可能性にすみかを与えてしまうことになります。(簡単に言えば、自己矛盾、所謂「ブーメラン」。)

逆にいえば、「欠落」のある人々にとってのバリアを考え、解消を取り組むことは、我々「健常者」にとって、以下のような形で重要だと言えます。すなわち、自己の存在にとっての不可知のバリアの肯定によってのみ、不可知のバリアの蓋然性による自己の存在の否定を、避けることできるという形で。

このように考えれば、人間である以上、「障碍」に対する差別の解消や、彼らにとってのバリアの解消に尽力することは、当然なことと言えるだろうと思います。我々は多かれ少なかれ不可知の領域として、認識の外の範疇として、同様の「障碍」は有しており、そのようなものは単に相対的なものに過ぎないのですから。

加えて、デカルト『方法序説』における、一般的に「明証性の規則」と呼ばれる表現をあげておきましょう。

”わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと”
”注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断の中に含めないこと”

同様に、本書には次のような文言もあります。

”正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっている”

これらは、認知の欠落の大小にかかわらぬものとして、現代では捉え直してよいでしょう。その上で、少なくとも同じ地平における存在者たる以上は、明証的な事柄に関しては、共有可能なはずだという姿勢は、一貫して取らねばなりません。それが、不可知の領域を有さざるを得ない我々自身の存在そのものに、存在の可能性を残しておくことになるのですから。

*1:ここでは一貫して「障害」ではなく「障碍」を用いています。やはり、社会や人間同士で作ってしまったバリアによって、彼らは苦しめられているのです。「障害」という言葉があることによって、彼らはそのように認識されてしまうという、構造主義の考え方ですね。「障害」の字にあるような、劣位にある人々であるということでは決してありません。社会によってもたらされた「バリア=障碍物」によって今なお苦しめられている、文字通り「できなくさせられた人々=disabled people(できなくするdisableの過去分詞形disabled)」なのです。

まとめ

全く別の記事にすればよかったと、今更ながら思っているところですが、最後に1と2を少々繋げておいて、あとは皆様の豊かな理性と感性にゆだねましょう。

「水槽の脳」の水槽は、それでも、公権力という形で、バリアを認識させようと試み続けます。行政においては、それが効率が良いからです。当たり前ですね。しかし、日本においては、生政治的性格を帯びたデュー・プロセスをもって、多くのバリアがなおざりにされ、あるいは維持されることで、多くの生命が、文字通り「廃棄」されてきました。明治以降で考えてみるだけでも、屯田兵の旧士族、ハワイ移民やブラジル移民、からゆきさん、満州移民、在日コリアン、福島避難民……

水槽の「外」を我々が決して認知できないということを、「水槽の脳」は肝に命じておくべきです。その上で、せめて水槽の中においては、他者と共生可能な社会を作り上げていくべきだと、私は信じています。


にしても、この程度の内容で、近頃は「左翼」であると見なされ、その上で糾弾されることがあるようですね。そうやって糾弾することそのものが、自らの存在可能性の否定という陥穽へと落とし貶めゆくことになる気が、私にはするのですけれどねぇ。。。


久々の更新となりました、今回の投稿。
拍手を押していっていただけると、大いに嬉しいなぁと思います。
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カテゴリ: 思想

テーマ: 哲学/倫理学

ジャンル: 学問・文化・芸術

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