懐炉のノスタルヂア

さてさて、昨日につづき、俳句を。

これを作句したのは確か去年の11月ごろだったか。大学の文化祭の出店でシフトの時間が同じだったサークルの女の子が、カイロを買って渡してくれたことがあって、そのときに、「そういえば、高校のときにもこんなことあったなぁ。あのときは、片想いしてた子に渡されて、さりげなく自分の胸ポケットに入れたっけなぁ」と思い出したことがあってね。そうして、不意に望郷にかられて、読んだのがこれ。

君くれし懐炉の胸ポケットかな
季語:懐炉

カイロ(懐炉)ではなく、胸ポケットに詠嘆の助詞をつけるのが、良いのか悪いのか。ここが実に悩ましくて、長い時間考えてこんだ記憶がある。「君くれし胸ポケットの懐炉かな」だとストレートに五七五の調べになる。でも、やはり自身の胸に感じたカイロの温もり、そしてそのカイロが胸にもたらした、別の心的なぬくもりを表現するには、胸ポケットを詠嘆したほうがよろしいかと、個人的には思ったわけだ。この調べの逸脱も、個人的には、当時の自分自身にぴったりで悪くないと思ったしね。

とりとめなく過ぎていった思春期の、他愛もない1ページでしかない、そんな風景。

その不安定な情緒に衝き動かされた、空中ブランコに乗っているかのような青春。

夢想家、妄想家であった当時の僕にとって、決して自身の足元が真っ暗闇の闇だとは感じず、むしろ、未来から差す光しかなかったように思えた、そんな青春。

しかし、その光に反射しまくって、当時はすべてが白っぽく、味気ない色に見えもしたような、そんな風景。

それが、最近では、落下傘奴のノスタルヂアとして思い出され、セピアの中に、むしろ鮮明に、魅力的に色づいている。

こんなふうにして、尊敬する中也を狭隘なものとするかのごとき援用を、浅ましさを自認しながら、それでもせねばならなかった、この静謐なる激情と閑寂なる狂騒と。これらが、懐炉のセピアを、セピアでありながら、さらに彩りを増さしむるような、そんな不思議な感覚を、最近では抱くようになった。

それに対し、現在の僕の時間は、徒然なるままに過ぎていく。

あの頃とは違って、夜が劫劫と更けるような、真っ暗闇の闇に居るかの感覚。

ぼんやりとした不安を感じる様な感覚。

塵労に疲れたと言えるほどの艱難辛苦を負ったわけではなくとも、薄暗い坂や藪のあるトロッコの細長い路が続くのを、やはり一気に駆けて戻りたくなるような、そんな感覚。

この感覚も、数年後には詩となり、愛すべきセピアとなるのだろうか。

この闇が、ただ今を生きているがために色を感じられなくなっている、それだけのことによるのだろうか。

ノスタルヂアを以て見返れば、これらも愛しきぬくもりを懐くのであろうか。

君くれし懐炉の胸ポケットかな

<参照>
中原中也「サーカス」
芥川龍之介「トロッコ」



ここまで読んでいただければ、
ついでに拍手していただけると嬉しいです。

クリック一回分の労力を割いてあげようと思わせるような文章を書くことができたという自信につながるので、していただければ、多分跳ねて喜びます笑
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