秋惜しむ

午後の陽の錠の冷たさ 秋暮るる
季語:秋暮るる

秋の終わり頃を感知する上での一つの指標として、様々な物、事、場所に、秋の名残と冬の気配とが共存していることが挙げられよう。

一例として、窓から見た空の青さがまさしく秋のそれにもかかわらず、その窓の鍵を開けようと触れた途端、金属の伝導によって冬の冷たさが感ぜられる、というような状況が考えられる。

そういった条件下において、少なくとも私は、冬の到来の間近なるを知るのである。

そうした指標だけによっては、しかしながら、『暮の秋』を思うか『冬近し』を思うかは人によって異なる可能性が十二分にある。秋の残滓を感じるか、それとも冬の兆しを感じるかは、人によってそれぞれだろう。

もちろん、たった今言及した二つの季語は、あくまでも秋の季語であり、『木枯らし』などはっきりとした冬の季語とは異なることは言うまでもないように、季節そのものに関する言葉の選択は、季語の力に頼って一定程度、可能なものとなる。

一方で、例えば今日の俳句の上五・中七の「午後の日差しに当たっているのに錠前が冷たい」という感傷を俳句にする場合には、主体の感覚次第では、下五の季語は『暮の秋』も『冬近し』もあり得る。同じ季節の季語の中では、どちらを選ぶかは主体次第であるのだ。

その上で、どちらの季節感を作者という主体が感じ取ったか、さらには、その季語を選ぶという必然性があるような表現になっているか、ということが、句作に際しては重要なものになってくる。

今回の俳句の場合、「午後の陽」といういかにも秋らしい言葉を出した上で、それなのに「錠の冷たさ」を触って感じるということで、あくまで、秋の弱まりというものを前面に押し出したつもりである。

あくまで、未だ「午後の陽」を感じるくらいには秋の残滓が残っているという記述を意図したわけである。

どうだろうか。

うまくいっていれば、としみじみと思う。


と言って、『燈火親しむ』ことをしつつ、このようにしみじみと感じ入っているということが、まさしく甚だ秋らしい感傷だと言えるのではないかと思う。

このようにして日常の些末事への気づきの蓄積は、先述の季語についての考察とは別次元で、非常に重要なことなのだろう。

今回は、この辺で。失礼。

午後の陽の錠の冷たさ 秋暮るる
季語:秋暮るる

惜秋
<ネットより借用した東京駅の風景>
スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment