鑑賞1<斎藤茂吉「死にたまふ母」より>

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり


両句、甲乙つけ難き名吟である。バイトで勤務している某塾の国語の中3教材で目にしたこの二首を生徒に解説するにあたり、一通り考えてみたのだが、そうするとなんとも吐き出さずにはいられない気分になったので吐き出してみようと思う。

まず<のど赤き…>から。これは、しばしば、状況を客観的に捉えた句であり、どこか醒めているとも評されることがある。どこか冷静な、即物的な吟詠であり、自らの力を超越した死と生との境目をありありと描出したという評価を、僕は中学の時に教師から教わった。当時はなるほどと思ったが、しかしながら、よくよく読み返すと、はて、果たしてそうであろうか、真に客観的と言いうるだろうか、というのが、私の問題提起である。(もちろん、私は哲学的探求に足を踏み入れるつもりはない。西田の純粋経験も、ハイデガーの存在論も、サルトルの実存主義も持ち出すつもりはないし、なんら脈絡はないことを、先に言明しておく。)

さて、詳しく見ていこう。
「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて」…①
「足乳根の母は死にたまふなり」…②
と、ふたつの部分に記号を振ろう。①では、その季節の風景が描かれている。実家の縁側に面した畳の部屋にいて、母の亡骸はそこに横たわっているのであろう。おそらく、茂吉とその親戚が何人もいたであろうが、その悲しむ姿の描写や、あるいは茂吉自身の姿をどこかに感じさせるというよりは、季節の廻りと生物の廻りを①で述べ、そして②で母の生の終焉=死を描いている印象を受ける。確かに、そう考えてみれば、客観的な視線の当て方という評も一つの見解としてありうるだろう。これが、中学生の時の私が納得した解釈であり、今でも一定理解は可能である。

しかしながら、果たしてそうであろうか、というのが、私の問題提起であった。そう、客観的であるならば、不自然な箇所が、ここには存在する。すなわち、①の色の描写が、まさしく然る不自然さを顕すのである。

①における、のどが赤いという描写は、屋梁の下からの目線で燕を見ていることを意味することとなる。つまり、この視線のダイナミックな転換が、①と②の間で起こるのだ。そう、①は下から見た、つまり、母の枕元付近から見た燕の風景であるのだ。ということは、②もまさしく、枕元に座する茂吉の目線から見た、母の姿ということになる。

さらに、燕の二羽というのは、季節として、おそらく親子なのではないかと私は思う。これは可能的推察でしかないが、そのように推し量りうると判断させる原因は、やはりこの目線の転換だろう。そもそも、一首の中で、母と死と燕が並立の関係に置かれているような印象は、誰も読み取りはしないはずだ。すなわち、誰もが、この首の主題は、②であると言明することができるはずだ。となれば、そう思わせる効果があるということになる。その効果として、母の死という内容の重さを挙げることもできようが、それよりも、母の死と実子の関係の対比的な構図、すなわち、母の死を看取る子と、子を巣立ちまで育て上げた親という対比が、屋梁を挟んで展開されているような印象を、読者が受けるからであろう。

そして親子だとすれば、茂吉の視線は、やはり自身と母との関係を、燕に見出しているということになろう。①で母と子の今までの姿を燕に投影し、その母が死んでしまうという場面を②において描く、この構図。燕を下から見上げているようで、実は茂吉の目に見えているものは、ずっと、枕元で今自分が看取っている母なのである。上を見ながら足元の母を思う。燕に自身と母を置換し、自身と母の歴史性を合わせ鏡的にその空間的、時間的、さらには存在的な超越の中で、彼の意識が全て母を捉えており、そしてその母が、たった今「死にたまふ」という、この母の死という事実を、この超越の中でなおも現前するものとして、描いたのではないだろうか。

したがって、以上を踏まえれば、客観性や、まして「冷めている」の一言に、この歌が矮小化されて述べられてはならないと言えそうだ。語られうるのは、茂吉の意識という主観性が、母の死の超然を捉えているということであって、そこにあるのは、死という絶対的な境界を前にした、静謐な動転と激情以外の何物でもないのだ。彼は、決して冷めていたのではない。客観性など、彼の主観の中で、あるいは吟詠において、貫徹して維持することはできようもなかったはずだ。私は、客観的な視点の当て方という読み方を批判したいわけでは決してない。そう断った上で、この一首においては、即物的な描写というよりも、上記のような激情が、この名吟を生んだのだと私は思う。


さて、<のど赤き…>に相当な時間をとったが、<灰の中に…>に移ろう。

これも、以下のように二つの部分に分けたい。
「灰のなかに母をひろえり」…①
「朝日子ののぼるがなかに母をひろへり」…②

①は、火葬されたのちに、灰となったその中の母を拾うという場面である。突然、こうしたショッキングな表現が出るため、ここに悲哀なる情感を感じる人は実際多そうに思う。さらに、②のように、時間情報と広い光景を浮かばせながら、最後にもう一つ、駄目押しで反復することで、さらに印象深い一句にしている。死など遠い事実だという潜在的感情を抱いていた思春期の私に、死を意識させたのは、曾祖父母を相次いで亡くしたことと、この句であった。

ここで私が考えたいのは、この一首もやはり、主客に両面的な光景描写によって、名句を成しているのではないかということだ。

まず①の表現についての、彼の感情についてである。この点について指摘する人は相当に多いと思われ、わざわざ述べる必要もないかと思われるが、念のために言及しておく。あくまでも、念のためであって、わかっているよと思われたならば、すっ飛ばしてもらって構わない。①において、「母の遺骨をひろへり」あるいは「灰となりし母をひろへり」などとは言わずに、「母をひろへり」とはっきり言い切った。これによって、死んでもなお変わらず母であるという、茂吉の心境が語られるのだ。しかも、それを二度も繰り返して念押しすることで、その印象はなおも強められているのだ。こうした主観的意識に訴えかける叙述によって、血を分けた者たちへの親愛を呼び起こすのである。

しかし、先述の通り、この句はそれだけでは終わらない。やはり、構図の切り取り方、客観的叙述とも言いうるかのような、そんな描写が加えられているのだ。それは、まさしく、①と②で対句的に表現された「なかに」の表現である。

①は、かなり焦点を絞った描写だと言える。拾う手をクローズアップしており、ここでは、茂吉と母との関係が浮かび上がる。それに対して、②では、突然大きな構図、拡大的な視点へと移る。そうして、日の出の荘厳さの中に母の死を置くことで、その死の神聖さを描写することができるようになる。

しかし、この構図の転換は、それだけでは終わらない。

①は、「灰のなかにある母」を描くのに対して、②は「朝日が昇るなかで母を拾っている自分」を描くことになる。すなわち、母と自分の存在する場所が全く異なるものになってしまったという、此岸と彼岸の対比を、それぞれ朝日と灰の対比という象徴に込めているのである。当然、これらの描写は、「朝日が昇るなかで母の遺骨を拾う息子」という実際的な光景を浮かび上がらせるけれども、その一方で、此岸と彼岸を、比喩的な象徴として、この対句に込めるのである。

したがって、この名吟も、単に主観的か客観的かという描写の表層的な判断で区別することはできないといえそうだ。

これら、二首の比較として適当であると思われるのは、<のど赤き…>は投影を駆使した超越によって、<灰のなかに…>は比喩的な象徴として、それぞれ母の死を立ち上がらせているという、そのことだけであると思われる。それらを如何様に感じるかは、読者各々に許されていることだと言えそうだ。

茂吉本人が、ここまでを全て計算に入れていたかどうかは、知るよしもないことだが、少なくとも、単純な物言いによってこれを矮小化するのではなく、何遍も読み直して句の世界を味わうことが、斎藤茂吉という作家、そして彼の母、そしてこれらの句に対して、最大限の敬意を表することになるだろう、ということは言えそうだ。

したがって、私の稚拙な評論によって、世界観を狭隘なものに貶めているという誹りは、甘んじて受け入れることは断った上で、皆さんも、どうかこれらの句を、もう一度噛み締めてほしい。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり





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Author:タカマティー
日本語を愛し、詩歌を愛し、戦後保守主義主流を志向しつつ、たまにリベラルに身をやつして腐敗した権力を批判することもあるような、そんな大学生のブログです。

穏やかなる播磨の灘の凪を母とし、猛き鷺城を支配するかのごとき桜並木を父として、18年間を彼の地に過ごしたのち、メトロポリスTOKIOへやってまいりました。

本ブログは、日々のよしなしごとを書き散らし、ほどほどの厭世気分を吐き出していく場として活用する所存です。よって、おそらく掃き溜めのごとき文字列を、皆様にはご提供することでしょう。皆様におかれましては、御自力で、その中に鶴をみつけてくださればと思います。

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