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市民性、道徳、学校 (1)

市民性(citizenship)が教育の対象となって久しい。神奈川県においてシチズンシップ教育が開始されてから、はや10年が経過し、今や主権者教育という形で全国的にこれを推進するよう文科省と総務省が方針を打ち出すまでに至っている。

また、これと同期するかのように、2006年改正教育基本法第2条第5号に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」態度の育成が、教育の目標の1つと位置付けられた。それから10年余りが経過し、ついに道徳が中等教育においても教科化され評価が加えられるようになった。

これらの改革には、様々な要因が絡んでおり一概に語ることは不当である。しかし、甚だ大掴みに言ってしまえば、民主主義や道徳あるいは市民性を身につけさせるべきだという問題意識が教育に対して要請した改革であり、そうした潮流の中に位置付けられるものだろうと思う。

しかし、民主主義や道徳あるいは市民性とは何たるか。
そのようなものを定義づけることなど果たして可能なのか。
そうしたことを身につけさせる場としての学校はいかなる役割を担うべきか。
また、そもそもの問題として、現代という新たなフェーズにおいて、もともと「近代学校」として整備された学校というものは、どのような役割を有する場であるべきか。

問いは尽きない。いや、問いが常に現前する(present)という意味においては、必然として永遠に問われ続けると言うべきであろう。それは、その問いの性質から論理的に演繹可能であるように思われる(その詳細が本稿においては述べることができない)。

本稿は、こうした問いのうち、「市民性」に関する現時点での管見を、寡聞ながらメモ書き程度に残すものである。

市民性についての考察

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(「市民ケーン」[1]より)

そもそも、市民とはどのような存在であるか。
単なる都市住民を指す語に過ぎないのであれば教育目標に置く必要もない。
それでは、一体?

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によれば、「市民」とは「ある国家,社会ならびに地域社会を構成する構成員 (メンバー) 」を意味するらしい。すなわち、特定の政治集団あるいは国家に属する成員を市民と呼ぶのである。であるとするならば、そうした成員として備うべき様態を指して「市民性」と呼ぶのだろう。

これが人々の意識を反映した市民性概念のリアリティーではあろう。
実際に、この定義に納得された読者諸君も多いのではないか。

しかしながら、このリアリティーには極めて大きな問題が潜在する。それらは、世界史的な節目節目に於いて、極めて残酷で暴力的な形をとって顕現してきた。

その問題は、この市民性概念がfraternity(同胞愛)によって支えられるものだという性質によっている[2]

その話に本格的に移るには、ハンナ・アレントによる検討を大まかに概説せねばならない。

古代ギリシアにおける人間の生活範囲は、公的領域としてのpolis(ポリス)と私的領域としてのoikos (オイコス)という、2つの領域に区分可能であった(polisは政治空間を意味し、oikosは家 を意味すると便宜上とらえていただくと今はわかりやすいかもしれない)。さて、このpolisの領域には公共的な政治空間においてなされるべき様々な活動が交わされた一方で、oikosの領域の人間の活動には、いわば家庭の仕事として、子供の教育や訓練、自分たちの身の回りの世話などが存在した。このようにpolisとoikosでは人間の活動が明確に弁別されていたために、前者における人間の生のありようと後者の人間の生のありようも区別された。polisにおける人間の生はbiosと呼ばれ、oikosにおける人間の生はzoeと呼ばれた[3]

また、polisは異質な他者との対話のために開放された場であったため、そこでは連帯のための絆はphilia(友愛)と呼ばれる。一方のoikosは同質な属性を有する家族同士の閉鎖的な集団内であったため、そこでの絆としてfraternity(同胞愛)と呼ばれる。この両者は区別されるべきものであった[4]

このpolis―bios―philiaとoikos―zoe―fraternityとの対比が、古代ギリシアの特徴であったとハンナ・アレントは見出したのである。

さて、時代は移って近代である。

近代という時代は、今まではoikosの中で匿われていたzoeが対象化された。これをフーコーは、権力の前に「剥き出しの生」として引きずり出されることとなったと表現した[5](「剥き出しの生」については、水槽の中、バリアの認知を各自参照されたい)。それに伴い、従来はoikosに閉じ込められていた教育や保健・衛生などが権力の所掌するところとなった。

ちなみに、この点について、「私的領域に対して権力が侵食した」という理解を抱く人がどうやら多いようである。おそらく「公的領域=政治空間=権力の発言する空間」という理解が先行することによるものだと思われるが、これはアレント的には誤っている。なぜならば、アレントにとっての公的領域や政治空間とは、biosを基盤として形成される場であるからだ。そうではなくて、polisがoikos化したことで、国家の扱うべき対象がoikosの対象たるzoeとなったと理解した方がよい。すなわち、アレント的には、私的領域が拡張して公的領域を呑み込んだこと、くどいほどに換言すればoikosがpolisを呑み込んだこと、これが近代の大きな特徴であったというのだ。例えば、「家政術oikonomos」という語が「経済economy」の語源となっていることは適切な証左として挙げられるかもしれない。oikosの圏域が著しく拡張されたことが、この言葉の変化を見るとわかりやすいのではないか。

これによって、甚だ憂慮すべき事態が生じた。すなわち、同質性に立脚する同胞愛fraternityが政治空間を跋扈するようになったことである(そして、これが市民性について考える際にも大きな問題となる)。このことを端的に表す事象は、国民国家nation stateの成立、国民主義nationalismの蔓延である。

政治空間から異質な他者との対話を可能にさせていた友愛philiaが著しく後退し、同質性に立脚する同胞愛fraternityが蔓延するようになったことは、共同体内の均質化を促し、その過程での様々な抑圧や排除が生じる原動力となったのである。小玉重夫はこのような「社会的なるもの」の登場によって公的領域が解体されたと述べた。すなわち、oikosの拡張によって登場した「社会的なるもの」によって、polisが消失したのである[6]

さて、冒頭に挙げた「市民」の定義を今一度思い出されたい。「ある国家,社会ならびに地域社会を構成する構成員 (メンバー) 」である。この「国家、社会ならびに地域社会」がfraternityによって規定されている限り、これは、我々が「常識的に」抱いている市民性の理解に違わないにもかかわらず、非常に危険な理解となる。それは、ナチズムやスターリニズムといった全体主義的な様態で最も極端かつ残酷に顕現したからだ。世界史が苦手な人には、漫画『20世紀少年』を思い出してもらってもよいかもしれない。作中で「ともだち」が求めた連帯は、まさしく同質性に立脚するものであったはずだ。

『20世紀少年』の最終巻、中学生時代の屋上にて、「ともだち」と「ケンヂ」の次のようなやりとりが見られる。

ともだち「僕と"ともだち"になってくれる?」
ケンヂ「別にいいけどさ・・・・友達なんてなろうって言って、なるもんじゃないぜ。」

ジャック・デリダの友愛論[7]を引き継いだジョルジョ・アガンベンは、友愛とは主体属性でも特性でもないと著書において断言する[8]

そう、「ともだち」とは、主体属性でも特性でもないため、ケンヂの言った通り、なろうと言ってなるものではないのだ。しかし、近代国民国家は、fraternityによる連帯を求めた。一人一人のzoeに対し「国籍」という主体属性と「市民権」との紐づけをもって連帯させようとした。

この結末が悲惨なのは、こうしたfraternityの席巻の下では、人が「国籍」を剥奪されると、それと同時に「市民権」を失ってしまうことであり、一切のfraternityを喪失する運命にあることである。このとき、公共空間にもはやphiliaがなければ、彼らのzoeはまさしく「剥き出し」のまま権力の前に捨て置かれることとなる。あとは、収容所に送られるか、不安定な地位のまま劣悪な環境での生活を強いられるか、はたまた闘争に身を投じるか。

難民、収容所の中のユダヤ人、一次大戦後に解体された国(オーストリア=ハンガリー帝国やロシア帝国など)に動員されて敵国で捉えられた戦争捕虜、あるいは日本史上の棄民…

彼らの生活がいかに困難であったかは想像に難くないが、しかし何処か他人事のようでもある。こうした危機を真剣に考える人はそういないし、いたとしても、むしろfraternityによる「秩序」に固執する方向に進む人がほとんどなのではないか。

こうした状況において、われわれはどうあるべきであろうか。実は自分なりに、新たな「市民性」概念としていかなる概念が妥当であろうかと考えたことがある。そのときの筆者は、以下のようにして、市民性概念の定義を試みようとした。

「polisの領域は、oikos化したドメスティックな「社会的なるもの」のそれよりも広いものとなり、国民国家を越境するものである必要があると思われ、またcitizenはpolisのラテン語訳たるcivitasが語源であるから、cosmopolitan(世界市民)に求められるかもしれない。もちろん、安直なコスモポリタニズムは、後世のアレクサンドロス的なヘレニズムを含意することがあり、グローバリズムあるいは世界革命論のような、均質化への志向と結びつく危険があることに注意せねばならない。

したがって、ここにおいては、無為自然的に古代ギリシアを生きた、cosmopolitanの提唱者たるディオゲネス的な、原初のcosmopolitanでなければならないだろう。ここで原初といったのは、語源的ということである。cosmosとは「秩序、調和のとれた宇宙、世界」であるが、その対義語であるchaosとは、アガンベンによれば単なる混沌、無秩序状態ではなく、いわば生権力により法が宙吊りされた、主権者とされるzoeが法の内外に二重に存在するような状態であるという[9]。つまり、chaosとは、近代においては、まさしくフーコーの言う生権力の現出[10]であり、まったくzoe的である。とすれば、chaosと対義をなすcosmosとは、bios的であり、友愛に適すといえよう。したがって、cosmopolitanとはcosmo-politanであるから、まさしく原初にpolis的市民性を有するとともに、友愛を支える概念となりうるのではないか。」

しかし、この試みは挫折した。

筆者もやはり、主体属性や特性を無意識中に想定してしまっていたのだ。この自覚をもって、近代のパラダイムに否応なく枠付けられている自身の思考に失望したものである。

そう、これでは、philiaが復権するための条件を整備したことにはならないのである。philiaの著しい後退が、polisという公共空間の消失によってそれが発現する場を失ったことに起因すると考えられる。その場合、polisを復活させうるような範例的規範性を人々に持たせ、そのような公共空間をフォーマルに生成させなければ何ら解決することはできない。

では、polisを復活させ、philiaを取り戻すことが可能であるような範例的規範性とは、一体いかなる基盤によって生成しうるか。

この「範例的規範性」とは、取りも直さず道徳概念に類似するものである。
さらには、ハーバーマス[11]の「公共圏」や「コミュニケーション的行為」の議論なども参照する必要があろう。

そして、これ以降を議論するには、否応無く「道徳をいかにして基礎づけるか」という大きな問題に衝突する。

次に論じるとすれば、まさしくこの問題であろう。

教育学部に属する学生として論じるべき「学校」に議論が還流するにはあまりにも長い道のりであるが、もし機会があれば、続編を期待されたい。市民性についての愚見を述べたところで、今回は筆を置く。

最後に、拙文をここまで読んでいただいたことに感謝を申し上げる。



[1]オーソン・ウェルズ (1941) 『市民ケーン』(原題:CITIZEN KANE) [DVD]、International Visual Corporation。
[2]小玉重夫『市民と難民の間で―ハンナ・アレント『人間の条件』を読み直す―』現代書館、2013年。
[3]ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳)ちくま学芸文庫、1994年。(Arendt, H. (2013). The human condition. University of Chicago Press.)
[4] 前出[2]に同じ。
[5] ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生―』(高桑和巳訳、植村忠男解題)以文社、2007年。
[6] 前出[2]に同じ。
[7] ジャック・デリダ『友愛のポリティックス』(鵜飼哲ほか訳)みすず書房、2003年。
[8] Agamben, G.2009. "The Friend", What Is an Apparatus? and Other Essays, Stanford University Press.
[9] 前出[5]に同じ。
[10] ミシェル・フーコー『性の歴史 1 知への意志』(渡辺守章訳)新潮社、1997年。
[11] ユルゲン・ハーバーマスのこと。20世紀を代表する哲学者の一人であり、執筆している現時点(2018/2/8)にも存命であること自体に筆者は恐懼し畏敬の念を抱いた、それほどの知的巨人である。公共圏、コミュニケーション論や政治哲学などにおける第一人者であり、本論に深く関わる事柄についても膨大な議論を蓄積してきた人物であるにもかかわらず、お恥ずかしながら筆者は彼の詳細な議論について不勉強であり、本稿において触れることができない。メモ書きであるとの冒頭での付言や、ブログ上での公開といった、場の「緩さ」をもって、どうかお赦し願えればと思う。
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1 Comments

利根川散歩  

No title

面白い!本が出たら買います。

2018/02/10 (Sat) 00:03 | REPLY |   

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