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古賀春江

いつだかに、古賀春江という日本人画家を敬愛していると、
ここで申し上げたような淡い記憶があります。

陽炎に意識を飛ばしてしまいそうな時節に、
彼の絵を見るのも一興かと思います。

(そういえば、久々の「鑑賞」カテゴリですね)

ということで、今日は三点をご覧に入れたいなと。
まず、一点目は、わかりやすく。

煙火 (1927)
「煙火」 (1927)

のどやかに楽しげに見えて、どこか烈火の爆撃にすら見えるような、
不思議な安楽と不安の同居した絵であるように思います。

その点で、私が好きな一枚であります。

ネット上で情報を漁っていますと、
どうやら古賀はこの絵を「華々しい」ものとして描いたようです。
しかし、であるならば、なぜ私はこの絵に不安を思うのでしょうか。

この絵が創作されて僅か10年もなく彼は他界しました。
当時の画家よろしく、当時からしても甚だ若いうちに。

その薄命さを考えるとき、この不安の同居は得心させるものがあります。

ちなみに、安楽と不安の同居を考えるとき、
「夏」というのは、まさにそうではないか、
そうやって、しみじみ思うことがあります。
そういう意味で、いまご覧に入れるには丁度かと思いました。

さて、次は二点目です。

涯しなき逃避 (1930)
「涯しなき逃避」 (1930)

「果」ではなく「涯」とありますから、これは水平線でしょうか。
「これ」(彼?もしくは彼女?)は一体?
くるぶし(のようなもの)には、何やら丸いものが。
その真下には、永劫を思わせるかのような、螺旋(のようなもの)。

「思わせる」というよりは、「念はする」と感じ得る絵でしょう、
なぜこのように感じ得るのかは、一向にわからないのですがね。

当時、どうやら彼は、精神を害した人の造形に、
関心を寄せていた形跡があるようです。

彼自身、何をどこまで「念って」いたのか、
今となっては知るすべもありませんが。

ささ、早くも、
最後にお見せするのは、彼の絶筆です。

サーカスの景 (1933)
「サーカスの景」 (1933)



我々からすれば、最も「まとも」に見えるかもしれません。



しかし、ここまでを見たとき、

果たして「まとも」とは何かについて、

考えなければなりません。



例えば、脳卒中等による損傷や、生まれついての脳の一部の欠損などによって、

様々な形で認識が欠落している人間がいたとします。



彼らは、或る認識論的枠組みが、一切機能することがありません。

その欠落にすら、自分では気づけません。



その人の世界は、甚だしい不便さを伴いつつも、

一方では、非常に「自然な」形をもって、欠落を有することになるでしょう。



これは、認識論的基盤、認識論的体系を共有しないような、

他者同士の間で生じる齟齬と、構造的に類似しています。



例えば、地球人類よりも、遥かに高度な生体的能力と文明を発達させた、

宇宙外「生命」(のように地球人類には見えるもの)が、

地球人類と邂逅して、差別を始めるような構造に。



我々、「健常者」であると思っている人々についても、

不可知の領域は一定程度、想定することができる以上は、

全く異なる(あるいは進歩した)存在論的基盤を有する存在の側から見れば、

同様に「障碍」を有する者であることになるでしょう。



そして、古賀が何を感じ、何を考えていたのかを知るすべがない点では、

我々が、古賀の有する認識論的基盤を有さないということになります。



多少の誤解を諦めて簡単に言えば、

彼が我々からすれば「異常」である以上に、

我々が彼からすれば「異常」であり「欠落」している、

こういうことになります。



さて、「まとも」とは何でしょうか。



私にも、わかりませんがね。



そして、少なくとも、彼の世界には「詩」があります。

美学的・喚起的な性質を用いて表現される「韻」があり、

なんとも「レトリカル」であり、

"Negatively Capable"である点において。



何だかよくわかりませんがね。
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