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追想

ハイウェイに聴き終ふる百物語
季語:百物語

川の字の酔ひどれ彦星の笑ふ
季語:彦星

海原にむら雲の消ぬ終戦日
季語:終戦日


台風一過、秋を纏ふてくる風の折節に、私は東京の一室に居ります。

帰省を終え数日、本格的に勉強を始めねばと机に向うて居りますが、
集中が続かず、かくて別の世界に逃避せんとするのです。

以上は、帰省中にここぞとばかり作り溜めた俳句です。

暦の上では秋ですが、とはいえまだ8月ですので、
夏の季語と秋の季語を織り交ぜてのご提供です。

類想類句、じゅうぶん存在だらうと思ひます。
なにせ頻繁には句作できないものですから。

なあに、ただの言い訳ですがね。

さて、俳句は今日はこれくらいにして。
以下は重くなるので、読もうとも読まずとも各々ご自由に。

茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)
サルヴァドール・ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」(1936年)



I miss you.
という英語には、ぴたりと合った日本語訳がないということを耳にしました。

なるほど。

では、その観想を、とある唐突な出来事によって得てしまった僕は、
これをどのように日本語の言葉にして表現すればよいでしょうか。

そのために、少々迂遠であることは承知の上で、
先ずはI miss you.の意味の把握から。

これをあえて硬く日本語にするならば、
『彼の不在にいまだ慣れない』
という感じになるそうです。

ふむ、なるほど。

では少しばかり考えて参りましょう。

私にとっての「彼」とは、高校卒業以後ずっと離れた地に暮らしていました。
考えてみると、その4年間でお会いできたのは、たったの2回でしたかね。

今気づくと、その間、私は「彼」の「不在」を意識もしませんでした。
つまり、実質的には「不在」のはずなのに、それを意識しなかったのです。
目の前にはいないけれど、どこかに必ずいるだろうという形で、
「不在」を受け入れなかったのです。

それが、今では、私にとっての実質的な状態が何ら変化していないのに、
「彼」の「不在」を「不在」として受け入れ、それを意識してしまいます。

高校卒業以後、今までも、これからも、
私にとっては実質的にずっと「不在」であり続けたはずの「彼」を、
しかし私は、これからは、
「不在」として受け入れねばならないし、意識せねばならない。

ここにおいて腑に落ちました。

すなわち、私たちにとって、実質的に「不在」である人はたくさんいます。
私の両親や兄弟も或いは友人のほとんども、
「今、私の目の前にいない」という意味では、実質的に「不在」であり続けます。
しかし、私は実際のところ、それを「不在」と受け入れない、意識もしない。
そういうことがあって初めて、「不在」を受け入れ、そして「不在」を意識すると。

しかし、本来であれば、先に受け入れなければ
「不在」を十全に意識するなどできないはずなのに、
儀礼を通すことによって、人間はしばしば、
受け入れる前にそれを意識することを強いられる。

そうなると、受け入れられてもいないのに、
先に意識させられることによって、
(そして、受け入れるという営為そのものの「不在」によって、)
「彼」の「不在」がいっそう際立ってしまう。

我々には、そういったことがしばしば生じます。
それを指してI miss you. と言ったのではないでしょうか。

したがってI miss you.の意味は、

『彼の「不在」を「不在」として意識させられながら、
しかし、その「不在」を受け入れられないでいること。
それによって、さらに「不在」がいっそう際立ち、
それを意識させられてしまうこと。』

人間があまねく抱きうる、ある種の「不在」のスパイラル。
それがI miss you.ではないかと。

ここまで考えた時、はたと気がつきました。
こうも普遍的な感情であるならば、
わざわざ明白な表現にせずともよいではないか、と。
それを言外に感じさせる表現はいくらでもあるだろうと。

よって、私なりのI miss you. を「彼」に送り、本稿を閉じさせていただきます。



『貴方がいた日々は、
とても楽しかったです。
どうか暫し安らかに。
何年先になるか分かりませんが、
またお会いしましょう。』
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