うららかなる破綻の考察

うららけし 手首の血もスピリタスも
季語:うららけし

季節の感慨など、誰が決めたのであろうか、という感慨を抱くことがある。

「秋の暮れ=寂寥」「冬の朝=清澄」など、誰が決めたのだろうか、といったようなことを思うことがある。

もちろん、同様の批判は繰り返されてきた。平安以降の日本人が確かに蓄積してきた季節感というものが、是に於て、同調圧力として、硬直性として働いているのではないか、という懸念や愚痴や批判は、それを吐き出さしめた原因は各々違えど、歴々の文人が指摘してきたことである。

「季語なんて旧暦の残滓であり、 '夜明け前' の遺物であって時代遅れである」という批判などに至っては、半世紀以上にわたって繰り広げられてきている。

しかし、日本語の歴史たる、およそ2000年分の蓄積がそこにあることを考えると、それを完全に無に帰せしむるような、そんな絶対的な革命は、ビッグバン以前の混沌へと日本語を至らしむようにも思われ、非常に悩ましい。

ということであれば、季語としての感傷へは従いつつ、潜在意識としては相反するような、そんな転覆(クーデター)のようなものが、そのような革新の在りようとしては、現時点では一旦、望ましいのではないだろうか。

安穏たる季語に破綻めいたものをぶつけたり、激情の季語に不自然な静寂を取り合わせたりするといった、そのような表現の蓄積の拡がりによって、そういった転覆は導かれうるのかもしれない。

とはいえ、そのようなことすらも、歴々の詩人たちが行ってきたことである以上のことでは決してない。従って、結局は日本語の枠内に収まるものという他ない。アウトローはあくまでもアウトローなのであって、どれだけ外角いっぱいを攻めても、ストライクはストライクであるし、ボールはボールである。

やはり、カオスではないもの、すなわちガイア以降のものは、もはや季語の世界にあらかた包含されているのだろうか。

それでも、ガイア以降の世界に風穴を開け、その混沌から新たなるビッグバンを生むような営為を、諦めたくはない。調和のとれた世界が存在することなど、本当にあるのだろうかという疑いの視点を放棄したくはない。

たまには、日本語の混沌を射すことを志向した句作に、このようにして挑んでいきたいものである。


さて、そこで上記の句である。ちなみに断っておくが、僕自身が自傷癖がある或いはアル中であるというようなことはないので、その点はご心配しなくてよい笑

上記の句であるが、読んでいただければわかる通り、五六六の調になっている。合計の文字数は、五七五の句と同じ一七音に収めているが、調べは逸脱するという「破調」を利用したのだ。これに対して、忠実に五七五を守った以下の句も検討した。

うららけし 自傷の痕も火の酒も

これだと、少々具体性に欠けるところが難点である。また、句の内容が破綻した生活を詠っているため、調べも破綻させた方がいいとの判断によって、破調の句を冒頭に選んでみたのだが、果たして、どのような印象を読者は受けるだろうか。

もし、よければ、どんな意見でもいいので、コメントを頂戴できるとありがたい。



ここまで読んだのであれば、ついでに拍手もしていってくれると嬉しいです♪多分、飛び跳ねて喜びます笑
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