春濤の六回忌

東北や 雪の名残の水平線
季語:雪の名残

冬眠から明けて、虫たちが巣から出始める頃というのを意味する季語「啓蟄」を、海にも感じるということについて「蠢動という葬送曲」で述べた。この記事にも関連するので、時間が許せば是非一読していただきたい。

そうした蠢動に対して、少なからず好ましい感傷を懐いてきた日本人は、しかしながら、かの災禍を経たことで、啓蟄の頃が廻るたびに、蠢動の海に対して、甚だしい畏怖の念を想起させられることになった。

雪解の水で満ちるはずの海によって、心を凍てつかせることになった。豊かの実りをもたらすはずの海によって、実りを奪われた土地へと打ち棄てられることになった。そして、これからガイアに生命を吹き込むはずの海によって、我々自身の生命を根こそぎ奪われることになった。

これらの逆説を人々が突きつけられたとき、ある者は神話のごとく「共存」を高らかに謳い、ある者は現実主義を気取り「支配」を威く説法するようになる。

災禍のたびに、日本がそういった畏怖によってとる姿勢に於て、メビウスの環に居るかのごとき、方策の振り子に陥ってしまう原因は、ここに在しているのだろう。

政治的なものに携わるものであるならば、その振り子の克服をここで志向し、論じることは理解できる。

しかしながら、形而上的でさえあるこうした生命の蠢きを前にして、我々に唯だ許されていることは、何人も容易く手に取ることができる手段としては、おそらく、灯籠流しのような、クラシカルな慰霊の営為のみであると、私には思われるのである。フーコー的権力理解など、このような場面では、どうにも取るに足らぬものとして、私には感ぜられて仕方がないのだ。

春月のもと、その形而上の岸辺に向かった命に対して、思いを馳せることー思索を巡らさずとも、ただ、意識に於て安穏を志向することーポリティクスとは全く異質な、存在者に与えられた最低限の営為ーが、このバイオレントとも言いうるような海の蠢動への犠牲(sacrifice←sacred)に対して、我々が唯一できることではないか。

今日のような大きな春の月の超然が、儚き祈りの対象たる彼らの、我々に対する超越と重なりあう。この眺めに、そうした想いを馳せながら、今夜も闇は更けてゆく。

東北や 雪の名残の水平線
季語:雪の名残




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