校庭

校庭を走る軽トラ 風の菊
季語:風の菊

校庭を走る軽トラ 末枯るる
季語:末枯るる

学校の校庭に咲く草花というのは、子どもに日本の四季を感じさせるという国民化のため、あるいは理科教育の便益に供するために、さまざまなものが用意されています。その代表はまさしく「桜」であり、これを象徴的に見た当時の政府によって全国の校庭に植えられ、それによってさらに人々の中で桜が象徴化されるという循環が、結果的に現在に至るまで引き起こされ続けています。皆さんも、小学校には必ずといっていいほど花壇が用意され、そこには四季の草花が咲いていたのを覚えていらっしゃるでしょう。

今回は、そんな学校あるあるを詩に昇華させようと試みた二句。といっても、上五・中七を全く同じにして、下五に異なる季語を配したというだけですが、それでも季語が異なるだけで、この軽トラの感じ、雰囲気のようなものや、句が醸し出す季節感の全体的な明暗が、かなり異なってくるように思います。

内容はさほど解説的なことを突っ込まずともご理解なさるはずです。非常に素朴なまま、感じたままを詠みましたし、技巧的にどうだとかは無いですから。各々にて、句の世界のにおい、音、温度などを感じてくださればいいのでは無いかと思います。

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颱風禍

轢断の猫の前あし野分晴
季語:野分晴

側溝の野猫のむくろ野分晴
季語:野分晴

まさしく颱風禍の真っ只中でありますが、俳句でございます。
しかも、今回はなかなかに悲惨な俳句でございます。

野分、すなわち秋の暴風雨のことですが、これが過ぎ去ると、からりとした青空が訪れるのはよくご存知のことと思います。これを表す季語の一つに、「野分後」や「野分晴」というのがあるのですね。

内容としては、野良猫が吹きすさぶ雨風の中でトラック等に轢かれてしまい、その遺骸が流れつつも人間の生活空間に留まったところで、台風一過の青空となったという光景を読んだものです。

「野分後」の方が上五・中七の雰囲気の惨憺とした雰囲気をよく共有しているとは思いはしたのですが、今回については、「野分晴」という割と明るめの季語を選んだ方が、大きなギャップが句の中で生まれて、悲愴が全体としてより滲むようになると思われましたので、「野分晴」にて句を締めました。

荒び散らばった濡れ落ち葉。倒れたままの放置自転車。
誰のものとも知れないビニール傘。

台風一過の青空のもと、生類は明るく気が晴れていきますが、一方の日陰には、野分中の姿のまま放置されたものもあるでしょう。そこだけは、颱風禍の世界に捨て置かれたままになっています。その颱風禍の世界の持続する姿は、台風一過の明るさの中で、むしろ異様に、不自然にひかり、我々の目に届くものでございます。

季語以外の推敲のときに非常に悩んだのは、上の句の「轢断の」という語についてです。「轢断の」というのは、あくまで筆者が見ていないところで「轢かれて千切れちゃったんだろう」と推測した内容であって見たままの光景描写ではないので、もっと適切な語がないかと検討しては見たのですが、「轢断」という言葉のもたらすイメージ・インパクトは侮れず、それを満たすような表現も探しきれませんでした。

よって、「轢断」という言葉の持つインパクトを表現するために、下の句のように、「むくろ」としか言い表せないくらいに嵐で無茶苦茶になった死体が、「側溝」という暗くて汚い場所にあるという描写に変えてみました。ただし、こうすると次は「前あし」という焦点の絞れた描写が失われるので、どうなのでしょうか。

結局のところ、どちらの方が好きなのかという、個人の好みに任せることになるのかもしれませんが、いかがでしょうか。ご意見、ご感想等ありましたら、コメントに宜しくお願い申し上げます。

最後に、悲惨な内容について不快に思われた方に対し、心よりお詫び申し上げます。
申し訳ございません。

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轢断の猫の前あし野分晴
季語:野分晴

側溝の野猫のむくろ野分晴
季語:野分晴

もみぢを拾ふ

天球のピースを拾う紅葉狩
季語:紅葉狩


もみぢを拾ふ


俳句を始めて一年余で作った俳句は、本ブログに掲載していないもの、未だ推敲中のものを含めると、百をゆうに超えつつあります。それに伴い、「雪」「花」「月」をはじめ、扱った季語も数知れぬほどとなりつつありますが、実は、「紅葉」については悉く避けてきました。

理由は至極簡単なことで、どうにも陳腐な発想しか思いつかず、また厖大な例句や麗句に翻弄され、硬直させられ続けてきたためにございます。いやはや、こうも赤裸々に申し上げるのも情けない限りですが。

なぜ「雪」「月」「花」でやれて「紅葉」でやれなかったのかと問われれば、しっかりと例句に向き合ってこなかった若さが、それを可能にしたというだけでしょうね。様々なものを読み込めば、安易なものは作れなくなっていくのが当然といった中で、代表的な季語であればあるほど、身近なところに近づけば近づくほど、距離を狭められてストロークが出ずに、陳腐へ沈み行くことに、やっとこさ気づいてしまったからでしょう。逆説的ではありますが、初心者の頃であれば寧ろ安直な句作をもって満足するために、句として残ったのでしょうね。

さらに付言すれば、こちらの方が大きな理由かもしれませんが、どうやら私の扱う句材、題材は、暗いものを含むことが多いようですが、それに対して私の中にある紅葉のイメージが、どうしても日差しのある優しくて明るいものであったこともあるのでしょうね。つまり、暗く発想しがちな私にとって、明るい季語がどうしても難所となってしまったと。自己分析しながら泣けてきますが、そういうことでしょうか。

ということで、今回は少々、姑息に記事を作成していこうと思います。何がどのように姑息であるかは、追々申し上げるとして、そろそろ本題に参りましょうか。

まず、前掲イメージとともに、二つの俳句をご覧ください。

天球のパズル嵌めんと紅葉狩
季語:紅葉狩

天球のパズル埋めんと照紅葉
季語:照紅葉

この二句は、中七と下五の一字ずつを除けば、全て同一単語、同一語順で作ったものです。しかしながら、さすがは季語でありまして、この違いによって、相当に意味が異なってくるわけです。

まず上五・中七については、天球(早い話が空のことですが)を埋めてゆく紅葉葉を、ジグソーパズルだと見立てた上で、このパズルの完成しない部分(前掲イメージ中の小さき空のこと)を埋めようとしている、という意味です。

それを受けて、下五の季語でございます。

「紅葉狩」となれば、上の十二音は、紅葉狩をしている人々の様子をいうことになります。よって、空を仰いだり足元を見たりして進む紅葉狩の一行の様子を、空のパズルを埋めるピース(早い話が紅葉)を探しているようだと形容する俳句となります。

一方「照紅葉」となれば、これは光るように美しく紅葉したもみぢ葉を指しますから、空という未完の部分を埋めようとするのは、あくまでも紅葉そのものということになります。したがって、紅葉をたんとつけた枝が空を黄赤に埋めていくという風景になるでしょうか。

このように、季語がたった一字変わるだけで、俳句の内容はガラリと変わってしまいます。他にも、「紅葉狩」と言った時と「照紅葉」と言った時を比べると、日差しの感じや、その空間の広さについて、ニュアンスが異なってくるでしょう。歳時記というのは、そうした世界観のいわば四次元ポケットなわけです。


ところで。ところで、なんですけれど。
今更申し上げるのもどうかとは思いますが、


実は上の二句は、個人的にはさほど気に入っていない俳句なのです。

童心に帰ったような発想の俳句にしては記述が気取り過ぎていて合っていない感があって、つまり早い話が、小賢しいように思えてしまうのです。自句自解の評としてこう書くことにつくづく情けなくて泣けてきますが、ね。

ということで、もう少し素直な句を、本稿の中心としました。


天球のピースを拾う紅葉狩
季語:紅葉狩


童心に返ったような見立てをしたならば、そんなに気取らず相応の記述にした方が何となくしっくり来ますね。そもそも、圧倒的にわかりやすくなりますし。

いかがだったでしょうか。

ここまできて、なぜ今回の記事が姑息なのか、お分かりになりましたか?

それは、わざと二つの句を自句自解でボロカスにすることで、自らの幼稚な発想、拙い句作を、精一杯肯定しているからです。少々子どもっぽいと思わせておいて、それを自ら意図したことだったと最後になって後出し的に明らかにすることで、相手の手番を少なくしているからです。

私の性の悪さが如実に出ている記事でございました。

何かコメント等ございましたらば、是非是非ご投稿ください。
貴重なご意見、ご感想、誠心誠意をもって受け止める所存にございます。

霧中のビビり

警笛の照らし来る線路の濃霧
季語:濃霧(霧)


濃い霧の中を歩いていると、電灯に照らされた霧の塊に何かがいるんじゃないか、霧に包まれた向こうの角から人ならざるものが出てくるんじゃないか、と思わせるようなミステリーが感じられるという経験は、私だけのものでしょうか。

20年以上も生きてきて、未だに雨とか霧とかで湿っている暗い夜道に苦手なビビリな私の申し上げている戯言だとも考えられるでしょうが、それ以上に、霧というものが、素直に「美しい」「綺麗だ」と断言するには、余りに不気味だということも確かであろうと思います。

一瞬そこに仄かな生気を感じるかのような、生命と無生物との中間にあるかのような、それに包まれたら最後、還らざるものとなってしまうかのような、そんな空恐ろしい中途半端さも、霧の性質の一部であろうと僕には思われてしまいます。

確かに、その外から見れば、霧のかかっている山々などは趣あると思うのかもしれません。しかしながら、霧中に一旦入れば、ただ化かされぬようにと願いつつ、早足で家路を急ぐというのが、私のこの季節の日常となります。

同じく霧中を歩く人の表情からは、特に女性からはそうですが、まるで加湿器に当たりながら歩くつもりかのように、敢えて霧を受け止めようとし、気味悪く避けるというよりは寧ろ微笑みをもって歓迎する節があるようです。そんな思考、感受性を有することには、率直に羨ましく思うのですが…

さて、俳句です。

警笛というのも、尋常ならざる不快感を持った、意に介さずにはいられない性質を持った、不思議な音だと思います。そんな警笛が鳴り続けて迫り来る(それと同時に、当然電車のライトも迫り来る)その音や光に照らされ強まりてくる刹那の線路上の濃霧を描きました。

音が照らすという記述については、少々違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、警笛の迫り来るあの恐怖と焦燥とを表現するには、意外と「音に照らされる」という発想も的を射ているのではないかというのが、個人的な意見でございます。

五七五の調べから逸脱して「濃霧」という季語を体言止めにより重たく置いてみることで、そこに何かいるのではないかという恐怖を含めて、この「霧」のイメージが持つミステリーを表現してみたいというチャレンジなのですが、どうでしょうかね。

霧の中に、もしかしたら人や還らざるものがあるのではないか。
電車に照らされた濃霧の中に、何かいるのではないか。
電車が過ぎ去ってしまったけれど、あの刹那には何かがそこにあったのではないか。
そういうふうに、たまには、霧中に目を凝らしてみても、面白いかもしれませんね。

ただし。ただし、です。
覗きすぎてはいけませんよ。

『長いあいだ深淵を覗き込んでいると、深淵もまた君を覗き込む』のですから。
ニーチェ『善悪の彼岸』)


警笛の照らし来る線路の濃霧
季語:濃霧(霧)



朝霧





<参照>
ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳

ゴミ出しの詩

ゴミ出しの足もと青し水の秋
季語:水の秋

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こう雨が続かれては障りがいろいろと出るものですね。

そもそも秋というのは「晴れ」のイメージが多いものの、日照時間は四季のうちで意外と少ない方だと聞きました。てことは、「スポーツの秋」ってのは、あれは1964年の東京五輪の開会式が10月10日だったことにあやかっただけのキャッチフレーズであって、あとは然程根拠はない、ということなんでしょうか。それはそれで、風流心が削がれるようで、なかなかなものですが…

そんな東京五輪を境として、東京を起点として、徐々に日本の街頭からは家の横に常設されていた木製のゴミ箱がなくなりました。ゴミはポリバケツのようなものに入れておいて、決まった曜日にゴミ収集車に運んでもらうものとなり、ゴミの存在は日常の裏側に隠れるようになりました。それがいいのやら悪いのやら、なかなか判断はつきかねますがね。

さて、この霖のため、俳句も雨の風景を詠むものが続いておりましたが、今回はさすがに、早く雨が上がるようにとの希望を込めて、雨後の風景としてみました。

意味としては、『ゴミ出しの朝、足もとの水たまりが「青い」のを見て、こんな所の水も澄んでいるのかということに秋を感じた』というような句ですね。「青い」というのは、水が澄むことの色覚的な描写と読んでもいいですけれど、秋の美しい空が映り込んで青く見えている、という風に解釈しても、綺麗だろうかと思います。

ここにおいて、作る際に頭を抱えたのは、やはり表現と、あとはリズムの問題でした。「朝」や「水たまり」や「空」などと言った言葉を、俳句の中には一切使っていないのに、「ゴミを出す」という情報を入れることは、少々拙速だったかもしれない。また、「青し」の終止形ではなく、「青き」と連体形にすれば、「青き」「秋」の「き」の音が、小気味の良いリズムを取ってくれるのではないだろうか、と。

ただ、ゴミ出しをした時に秋を感じるとした方が、実感として、経験として迫る感じもあり、それが瑞々しさを生むのかもしれないと思ったので、敢えてそのまま残しました。また、「青し」を採用したのは、すでに「足もと」「青き」「秋」の「あ」の音で韻は踏んでいるのだから、これ以上意図的に踏もうとしなくてもいいだろうと思い直したのと、句切れの全くない状態でダラダラと最後まで流れるのがどうしても嫌だったので、やはり、どこかで切りたかったからです。

いかがでしょうか…

何かしら、アドバイス等頂戴できれば幸いです。

ゴミ出しの足もと青し水の秋
季語:水の秋



<追記>

本文にて、「青し」について推敲したと書きました。そのあともしばらく考えていたのですが、よくよく思い直してみて、「青し」にすれば、「ゴミ出し」「足」「青し」の「し」の音で韻も踏むことができるようになることに気づきました。ですので、「青し」のままにして良かったのだろうと、個人的には今は納得しています。

ただ、そうだとしても「朝」や「水たまり」や「空」の情報が一切かけていることは気になり、やはり賭けに出過ぎているのではないかとも思ったので、こんなふうなのも考えてみました。

雨後の朝あしもと青き水の秋
季語:水の秋

こうすれば、「朝」「あしもと」「青き」「秋」と全体として「あ」の韻を踏むことができ、「青き」「秋」の「き」の韻も捨てずに済みますから。また、「雨」という情報が入れば、「あしもと青き」が水たまりのことだとも、少々はわかりやすくなるでしょうからね。

ただ、こうすると「ゴミ」と「青」の対比が失われてしまうので、考えものですけれどね…

学校の一風景

空き教室わらい騒げや秋驟雨
季語:秋驟雨

秋ついり願う恥ずかしがりの恋
季語:秋ついり(秋黴雨)

今日はとても単純な自分の経験をもとに、想像も働かせつつ作句してみました。

一句目は、騒ぐ学生のがちゃがちゃしたバイタリティを表現したくて、わざと上五を字余りにしてみました。二句目については、雨が降ると寧ろ誰も外に遊びに行かなくなるので、いろんな人とお喋りができて楽しかったなぁという自分の体験をもとに、教室の隅の方にいそうなシャイボーイ・シャイガールの恋を想像して率直に描いてみました。

いやはや、それにしても、泣きそうなほどに懐かしいですな。

まさかこんなにも若くから、故郷や母校に対して郷愁の念を湧き起こすとは、ゆめゆめ予想もしませんでした。そんな自分を俯瞰視し始めるやいなや、自分が耄碌したように思えて情けない上、そう思っている自分をさらに客観視してしまい、なんと老いさらばえたかのような発想をしているのだろうと、一層沈んでいくという、そんなスパイラルに陥っております。

ま、この夏に一度お邪魔したんですけれどね。
友達とも連絡は取れたりするんですけれどね。

私にとっては、甘いものと郷愁は別腹なんでしょうかねぇ…

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ちなみに上の写真は母校です。雨の写真もないかと探してはみたものの、そもそも雨の日に趣を感じるほどの詩心の欠片すら、当時の私は持ち合わせなかったようです。よって、この風景から、教室の、しかも雨の風景を、想像してみてほしいなと思います。

空き教室わらい騒げや秋驟雨
季語:秋驟雨

秋ついり願う恥ずかしがりの恋
季語:秋ついり(秋黴雨)

スプラトゥーンか、爆竹か

雨の赤門 ペンキと臭う銀杏の実
季語:銀杏の実

銀杏の爆ずる音しきり雨後の街
(ぎんなんのはずるねしきりうごのまち)

季語:銀杏


雨のうす寒い午後、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。

まず、一句目について。本日、某大学のキャンパスを歩いておりましたらば、雨のために道一面に広がった銀杏の実の上を、いかなる容赦も躊躇もなく、トラックや自転車が走り去るので、一面は黄色のペンキをぶち撒けたような臭いと風景とを醸していました。そうして、このような自然のペンキの色と対比可能な色彩的印象を持つ構造物を思い巡らせ、赤門に至ったわけです。

ちなみに、本稿の題名にある「スプラトゥーン」というのは、一定範囲の敷地内に複数名のプレイヤーがいて、各々がその敷地内に自分の色のペンキを撒き散らし、他の人の撒いた上から自分のペンキをかぶせるなどして、自分の陣地をできるだけ広げていき、最終的にその面積を競うという、流行のゲームです。こういう風に言葉で説明すると面白くありませんが、やってみると楽しいものでして、このゲームの名から、最初はこのように作っていました。

雨後の街 スプラトゥーンの銀杏の実

ま、これはこれで良いとは思ったんですけれどね。
さすがに万人にわかりやすい語で作ろうと思い為したので修正しました。

下は、「雨の赤門」なる芸術作品です。ネット上から拾ってきました。
湿りの奥から銀杏が香ってきそうです。

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                 笠松紫浪「雨の赤門」(1967)


二句目は、非常にシンプルな俳句です。あちこちから、革靴のような硬い靴底で銀杏を踏み潰す音が聞こえてくる、雨上がりの夕まぐれを詠んでみました。正直、置きに行ったといえばそうなるでしょう。何らオリジナリティは感じませんが、光景描写に徹することに執着した結果とも言えましょうか。

本稿の題名にある「爆竹」とは、まさしくこの硬い音を指しています。

それにしても、銀杏の実というのは、色彩も臭いも音も、特徴的なのに一般に周知されているという点で、とてもパワフルな季語だなとつくづく思いました。そんなこんなで、本日も更けてゆくのでございます。


雨の赤門 ペンキと臭う銀杏の実
季語:銀杏の実

銀杏の爆ずる音しきり雨後の街
季語:銀杏

花芒、恣

鈴が音の幽か 真赭のすゝき原
(すずがねのかすかますおのすすきはら)

季語:真赭のすゝき(真赭の芒、十寸穂の芒とも書く)


俳句を始めて、気づけば1年が経ちました。

ただただ、明鏡止水の心持ちで、目に、心に、浮かびくるものを詠むというふうになりつつありますが、それを表現するのに言葉を紡いでは解くことの繰り返しで、なかなかに大変なものです。

大昔に軽く登山らしいことをしたときの風景を思い出す、そこまでは簡単でも、その風景をどう切り取れば良いやらで、非常に時間を使いました。

なにせ、候補がありすぎたもので…

例えば、こんなのも考えたわけです。

鈴が音の幽か 風湧く芒原
季語:芒原

これはこれで、良い気はするのですが…
ただ、私としては、風よりも芒の真赭色がやはり印象深かったので、真赭の描写を優先してみました。が、自信はありません。好みの問題というだけならば良いのですが、描写可能な風景を狭めているのだとしたら致命的ですよね。

また、私の訪れた場所は、芒のみというわけではなく、すすきの他にも草花は一定ありましたので、以下のようなものも考えたわけです。

鈴が音の幽か 風湧く花野原
季語:花野原

こちらも、これはこれで、良い気はするのですが…
皆さんはどれが好きでしょうかね。また、他にはどんな句のパターンがあったのでしょうか。浅学な私にどなたか教えていただけると光栄です。

ちなみに下は、あくまでネットで拾ってきたイメージ画像です。私が見た風景は、流石にここまで芒一辺倒の原っぱではなかったことと、やはり尾花の色がぞっとするほど赤かったこと、この2点を主張しておきたいですね。

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あと、これはついでなのですが、冒頭の句の場合、季語は「真赭の芒」なのか「芒原」でいいのか、どちらが正しいのでしょう。個人的にはあくまでも真赭色が一定の面積をもって広がっている様を描きたかったのですが……折衷すれば、大きく見て「芒」となるのでしょうけれど……もし、何かしらご存知の方、あるいは俳句に関する厳しいご意見でも良いのですけれど、ありましたらば、自己研鑽のため、何卒宜しくお願い申し上げます。


鈴が音の幽か 真赭のすゝき原
季語:真赭のすゝき

故郷の秋祭まだき

谺する氏子練り子ぞ秋高し
季語:秋高し

鯖雲を攪拌しゆく大擬宝珠
季語:鯖雲

まわし畳む母はものぐさ秋祭
季語:秋祭

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     <神輿を練る様子。一の丸、二の丸、三の丸という三つの神輿があります。>

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  <メインの屋台。画像は広畠にて三台練の様子(左から木場屋台、松原屋台、中村屋台)>

僕の故郷では、10月14日、15日に、「灘のけんか祭り」というお祭りが行われます。
以下、しばらくは祭りの説明なので、読む前にですね、ネット上にたくさん動画がアップされていますから、You Tubeなどで検索して手っ取り早くどんなものなのかご覧くださればと思います。

山車や神輿、屋台(地元では「やっさ」と呼びます)を練り歩くお祭りは、祇園祭や岸和田だんじり祭などが有名ですね。

このお祭りも同様に、「神輿」と、「神輿」よりも数倍大きくて重い「屋台」を練り歩きますが、他の祭りと大きく違うことは、複数の神輿や屋台をぶつけ合い、先に神輿や屋台を落とした方が負け、ということを行います(これを「練り」と言います)。神輿については、二日間ぶつけ続け、最終的にボロボロにすると祭神が御喜びになるということで、15日の夕方にはあちこちが破損するまでにします。屋台は、十数年に一度新調するものなので、さすがに壊れるまでには激しくぶつけ合えませんが、それでも複数の屋台をぶつけたまま練り歩きます。

屋台は、祭礼の地域内にある、姫路市との合併前の旧七ヵ村ごとに一台ずつあるので、それぞれの村ごとの意地とプライドをかけた練り合いが行われます。屋台は一台2〜3トンほどあるようですので、ただ練り子衆で担いで歩くだけでも傾いたり落としたりしますが、それを他の村の屋台と近づけていきぶつけ練り合うわけで、非常にスリリング、かつ見応えがあります。大体は1分ほどでどちらかが屋台を落としてしまい勝敗が決しますが、時に3分から、長くて5分以上の練り合いとなることもあり、そうなると観衆からは盛大な感性と拍手が送られます。(15日の本宮では、段々畑を利用して設けられた桟敷席から大観衆が練り合いを楽しみ、そこには10万人以上が毎年集まると聞きますねー…)

これほどまでに盛大な祭りですので、地元民にとっては正月よりも盆よりもこの祭りが1年で最大のイベントとなります。そうすると、参加地域の各家庭の1年は、当然この祭りを中心として回っていきます。本地域内にある小学校、中学校は、毎年10月14、15日は必ず休みになるので子どもたちは友だちと一緒に観に行きますし、民間企業もほぼ休みとなって祭りに参加する人が多いように思います。域内を貫く国道250号線は2日間ずっと車両通行止めとなって、屋台や観衆の通り道となります。

実際、私が中学生の頃、部活の試合が近くて中学校で朝練をしていると「祭りに行かんかいダボ!」と先生が地元民にどやされてましたし、この2日間ゲームだけし続けて祭りを見に行きもしなかった友人は同級生の大半からド顰蹙を買っていました。かくいう私も参加し、顰蹙の念を抱いていた一人ですが…。

さてさて、これらを受けて、俳句です。
一つずつ自分なりに託した思いを語らせていただければと思います。
なんで語るかって?そりゃ僕も地元民だからに決まってるじゃないですか!


谺する氏子練り子ぞ秋高し
季語:秋高し
1つ目の句は、氏子や練り子が秋の空に谺(こだま)するかのように盛り上がっている風景を詠んでみました。空に声が高く舞上がっていくような感覚は、やはり祭りに実際に参加したことのある者として実際にあるわけですが、そんな擬人化をそのまんま文字化するのは躊躇われたので、氏子衆、練り子衆が高い秋の空の底で躍動する様子を描き、それから、谺するという言葉によって声が空へ響きゆく様子を勝手に想像してもらおうと委ねてみました。


鯖雲を攪拌しゆく大擬宝珠
季語:鯖雲
2つ目の句は、鯖雲(鰯雲やうろこ雲とも呼びます)を貫くかに高い擬宝珠(ギボシ)を詠んだものです。擬宝珠というのは、上の画像の神輿や屋台の上につくもので、基本的には神社仏閣に見られたり、橋の欄干にあったりしますね。下は京都、五条大橋の擬宝珠欄干ですね。
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神輿や屋台が練り歩き、そのてっぺんにある擬宝珠が鯖雲を攪拌するようであるという句ですね。

ただ、擬宝珠を、やっさの上についているものだと捉えてもらえるかどうかは賭けですね。
鯖雲をやっさの擬宝珠攪拌す
鯖雲や やっさの擬宝珠に攪拌さる

のような句もいくつか考えてはみたものの、上は漢字が集中することや語順が気に入らず、下は勇壮な風景を描こうとするのに対して調べがあまりにも長ったらしく緩くなることがどうにも気に入らなかったので、上のようにしてみました。


まわし畳む母はものぐさ秋祭
季語:秋祭
この句に関しては、うちの母をただただ描写したというそれだけです。父が生粋の地元人だったのに対し、母は全く別の地域の出身なので、渋々祭りの準備に付き合いはするのですが、なかなか面倒なことも多いようで、父の前では我慢しつつも私の前などではブツブツと文句を垂れ流すわけですね。周囲は秋祭に賑やかな中で、一人で母は留守番し、祭りで使用する父のまわしを畳んでいた様子を、そのまんまに詠んでみました。

ただ、東京で一人暮らしを始めてからは、バイトも授業もあるので14、15日には姫路に帰れていないんですよね……今年のお祭りも楽しみにしつつ、今年も帰省などはできようもないことが、あまりにも惜しい限りです……。

その思いを、思い出の秋祭に託して珍しく3つも詠んでみたのですが、納得のいかない句も実は多いので、ご意見等コメントにいただければと思います。よろしくお願いいたします。

公示日

いよいよ、本日10日に衆議院議員選挙が公示を迎えます。特に今回は、野党再編がまた急速に進んだだけではなく、18歳選挙権の制度のもとでの初の衆院選となります。<衆院選>若者層は保守的? 内閣・自民支持多く…世論調査(2017年10月10日閲覧)によれば、若い層は景気対策を重視するため、積極財政を現状進めている安倍政権を支持する割合が多いようですが、選挙結果にいかなる影響を与えるのでしょうね。

かく言う私も、住民票が未だに兵庫県姫路市に残っていますが、不在者投票をする予定です。投票の匿名性を確保するために、当然誰に / どの政党に投票するか、などは申し上げられませんが…

さて、ここで唐突に、読者のみなさんに問題です。

Q. 「一票の格差」の是正のため、衆議院議員の定数は削減され続けていますが、現在の衆議院議員定数は、何議席でしょうか?

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*イメージ図

A. 正解は、465議席です。

みなさんの中で正解した方は、どれほどいらしたでしょうね。

そういった選挙についての教育は、従来は社会科や公民科において学ばれてきました。しかし、投票率の低下や政治への無関心、あるいは自分が選挙に行ってもしょうがないという無力感が、問題視される中で、子どもたちを将来の市民として或いは主権者として教育を行う取り組みが、ヨーロッパを中心に急速に普及しつつあります。これを「主権者教育」あるいは「シティズンシップ教育」と言います。将来社会を担う有権者として必要な政治的教養を身につけるための教育であり、具体的には、選挙制度やその歴史の学習、マニフェストの内容による政党の比較などが行われます。これが、日本でも最近、文科省や総務省によって推進されるようになりつつあります。

さて、ここで、18歳有権者と主権者教育を巡って、このようなニュースがあったことを皆さんご存知でしょうか。

「18歳投票率高い、何か特別な取り組み?」 警察、高校に問い合わせ 神奈川で参院選後 指導内容にも言及か
(2017年10月10日閲覧)

以下、上記記事より引用


『18歳選挙権が戦後初めて実施された7月の参院選挙をめぐり、神奈川県警が横浜市青葉区内の県立高3校に電話をし、高い投票率について問い合わせていたことが19日までに分かりました。
教員ら「不当介入」と批判
 市民からの訴えをうけて県警にただした日本共産党の大山奈々子県議によると、県警は事実を認めました。選挙後の7月15日、青葉署生活安全課の署員が「18歳の投票率が高いが、何か特別な取り組みはしたのか」と問い合わせたといいます。
 本紙の取材に県教育委員会も高校に問い合わせがあったことを認めましたが、「県警とは日頃から生徒の健全育成のために連携している。その一環であり問題ない。(県警への中止要請も)しない」としました。
 県警はさらに、教員の指導内容にも言及した疑いもあります。
 ある県立高校の教員によると、青葉署は「政治的中立性」について生徒へどのように指導したかについても尋ねたといいます。
 教員は「前代未聞。現場からは批判とともに不安の声もあがっている。明らかに一線を越えた不当な教育への介入です。こうした越権行為に対し、県教委に自覚がないのがさらに恐ろしい」と話します。』


しんぶん赤旗という日本共産党の機関紙から引用した情報なので信用ならないと仰る方もいらっしゃるでしょうから、ニュートラルなサイトで掲載されているところがないかと探すと、神奈川新聞にも以下の記事がありました。

18歳投票率問い合わせ 市民団体、県教委と県警に公開質問状提出
(2017年10月10日閲覧)

他にも、まさかの7割超え!「18歳投票率が高過ぎる」と話題になった神崎町ってどこ?(2017年10月10日閲覧)においても冒頭にて触れられています。私が通う某国立大学教育学部の教授も授業で言及されていました。教育業界においては一定の衝撃を与えたニュースではあったようです。

さて、このニュースについて、少し考えてみましょうか。

まず、「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」という平成27年の文科省通知において、高校生の政治的活動は、その制限はあくまでも必要かつ合理的な範囲のものに止まるべきだという教育の方向が示されました。これは、学生運動の激化を受けて発された、昭和44年の「高等学校における政治的教養と政治的活動について」という通知が、18歳選挙権という大改革によって、改められたものです。選挙制度が高校生を包摂した以上、学校生活を著しく阻害しない限りにおいては、その政治的活動を制限することは、彼らの全き参政権、選挙権を侵害することになるため、そのように改めることは当然の措置だったと言えるでしょう。

その上で、神奈川県というのは、前知事時代から10年以上に渡って、つまり18歳選挙権の改革以前から、主権者教育に力を入れていました。具体的には、国政選挙のたびに、選挙の制度をやその歴史を学んだ上で、各政党の主義・主張・政策目標などを多角的に各々で分析し、最終的に模擬投票を行うというような学習を過去10年間積み重ねてきたわけです。

したがって、前述のニュースが衝撃的だったのは、主権者教育は文科省が通知によって認めているものであり、 その主権者教育を長きに渡って蓄積してきた神奈川県の高校において、高い投票率が実現されたということは、主権者教育の好例として評価すらされ得るはずであるにもかかわらず、高投票率を誇ったということのみをもって、警察による調査が行われてしまった、という理由からでしょう。

ここで念のため言っておくと、教育の名を借りて、生徒たちを特定の思想に染めようとすることは、当然あってはならないことです。これは主権者教育においても大前提です。子どもに対する教員の立場上の優位は、そうした精神面に対しては、やはり未だに大きいと言えるでしょうから。よって、子どもに多角的な視点と考えを持たせるような教育が当然望まれ、あらゆる政治的主張を押し付けることは、許してはいけません。(政治的中立性と一般に呼ばれます。これは、教員の思想の左右の偏りが問題なのではなく、保守本流や中道左派などの穏健な考えであっても、あらゆる思想を押し付けることを禁ずるものです。)

しかしながら、「政治的中立性」を教員に過度に求め続け、むしろ教育を「非政治的」なものにしてしまうことは、上記の文科省通知の趣旨には明らかに相反しています。投票率の低下、若者の政治への無関心/無力感を和らげねばならないという長年の課題を、解決することができるかもしれない重大な機会を、有権者を育てるための教育機会を、喪失させてしまうことにもなるでしょう。明らかに無益だと言えます。

にもかかわらず、例えば北海道では、学校側が挑戦的な主権者教育を行おうとしたときに、教育委員会の強い反対にあって断念したということがあったと聞きます。神奈川県では、教育委員会は伝統的に主権者教育に積極的に推進していたものの、今回の選挙を受けて警察が介入してしまいました。

こうした過程をもって、主権者教育に対し萎縮し抑制的になってしまっては、元も子もありません。日本の根幹を真に成すための民主主義を形作る、そのような教育が待たれていることは言うまでもなく、これが学校側の自粛ムードによって押さえつけられては、何のための18歳選挙権か全くわかりません。

そ も そ も、

権力の方がこういうことにむしろ抑制的にならねばならない、というのが市民としての常識ですが、これがあまりに一般的に欠けているのです。本来は、もっと大問題として報道されていいはずのことが、一部の人々しか問題視せず、しかも問題視すると「サヨク」であると認定されるのは、先進国の中で考えれば極めて異常なことなのです。

人々と国家(権力)との間の関係は、綱引きに例えられることがあります。たえず、自分たちになるべき有利になるように、人々と国家との間で、様々な綱引きを行う。その中で、国家が人々を裏切って優位に立とうとする可能性は、常に存在している。この裏切りの可能性をちゃんと認識していない人が日本にどれだけ多いことか。

水槽の中、バリアの認知にて触れたこととも関連しますが、そうした裏切りの可能性というのは、社会契約思想という、人権思想や国家観の核となる思想として現代でも通用する見識に照らせば、全く当然なわけです。

主権者教育を抑制し教育を非政治的にしてしまうと、こうした見識は一般からは奪われていきます。そうすれば、綱引きにおける国家側の優位が強まり、教育の非政治化を更に強固にして、ますます不可能にしていく、というスパイラルすら生まれかねません。おかげで人々は秩序立った中で気づかぬうちに弱く貧しくなっていく、国家の統治は安定し既得権益層は守られる。なんと麗しきディストピア、素晴らしい国じゃないか、全く。

昨年、18歳選挙権を受けて主権者教育を行おうとしたところ、現場で授業を受ける子どもたちから、こんな声が聞こえたと言います。

「大人だってまともに選挙に向き合ってないじゃないか。なんで俺たち/私たちだけがこんな授業を受けなきゃいけないだよ。」
「俺たち/私たちだけにそんなのやったってしょうがないだろ、押し付けんなよ。」

非常に耳に痛い言葉だと、大人のみなさんは思いませんか。

主権者教育は、子どもに対する「押しつけ」だと思われているのです。

様々な国難を招いた原因を作ったはずの大人が、自分たちは選挙に対してあまり真面目には向き合わないくせに、自分たちには「良い有権者になれよ」と押し付けてくる、と思われてしまっているのです。

あまりに情けない話でしょう。

特に、衆議院議員定数は、学校の教科書には当然載っていますが、ニュースでしっかり見ない限り、正確な数は大人でもなかなかちゃんと答えられないかもしれません。いま、言及した社会契約思想も、知らない大人が大半でしょうね。

まず、知るところから。
まず、学ぶところから。
まず、考えることから。

「学習」は、生きることそのものの根幹をなす営為です。
「学ぶこと」は、存在論的に有価値な営為です。

選挙まであと2週間。
みんなで学びませんか。
かくいう私も。



<参照>
『課題研究1「教育の政治的中立」と政治教育・主権者教育』(教育学研究. Vol. 84 (2017) No. 1 p. 49-54)